3年余り住んだ芝園団地を、離れることになった。
勤めている朝日新聞の転勤で、4月にワシントンに赴任することになったからだ。団地での生活は気に入っていたし、まだまだやりたいこともあったので残念な気持ちもあったが、気持ちを切り替えて準備をしていた。
ところが、新型コロナウイルス感染の問題が深刻になるにつれ、団地も、自分自身の周囲もにわかにあわただしく、重苦しい空気に覆われてきた。
広がったのは、ウイルスではなく中傷とデマだった。
ネット上では、中国人住民が多いことを理由に、「コロナ芝園団地」などと心ない書き込みが目に付くようになった。同時に、「芝園団地で患者が出たらしい」という話が、2月初旬から様々なルートで入ってくるようになった。「〇〇号棟の高齢者が入院した」「子供が通っている学校を通じて連絡があった」など、具体的でいかにも真実と思わせるようなものばかりだった。
厄介なのは、こうした事実ではない話を広める人たちがすべて、悪意があるわけではないということだ。意図的にデマを流す人もいたのだろう。ただ、団地に住む私たちのことを心配して、こうした話を聞きつけて団地住民に知らせてくれる人もいる。
「あちこちの知り合いから電話がかかってきて、『大丈夫か』って。やんなっちゃうよ。何にも起きていないのにさ」
団地住民と立ち話をするたびに、こんな話になって、お互い暗い顔になるのだった。
不安になる中国人
ところが、新型コロナが日本でも広がるにつれて、局面が変わってきた。
当初は芝園団地を不安視する日本人の視線を感じていたのだが、3月に入ったころから、中国人住民から「日本は大丈夫か」という声を聞くようになったのだ。
象徴的だったのが、自分の送別会への反応だった。
団地の住民有志が、送別会を3月中旬に開いてくれことになった。2月に準備を始め、30人余りが参加してくれることになった。ところが感染が拡大し、中止したほうがいいだろうと話し合った。
このとき、日本人住民からはむしろ「そんなに気にすることないじゃないか」と予定通り実施すべきという意見が出たのに対して、中国人住民のほうが、「やめたほうがいいでしょう」といった慎重な反応が多かった。
何人かの中国人住民に聞くと、口をそろえて「日本の対応は不安です。これで大丈夫でしょうか」と語る。理由を聞くと、中国の厳しい措置を見聞きしているため、日本の取り組みが「ゆるく」映ってしまうのだそうだ。
団地を離れていまは別の場所に住む友人の一人は、わざわざ私に会うために団地まで来てくれたが、帰りは電車には乗らず、レンタカーを運転して家に帰っていった。
別の友人は「外で人と食事をするのは今月に入って初めてです」と語った。
ウイルスは人々の不安を掻き立てる。その不安が「〇〇のせいだ」「〇〇は危険だ」という敵視に転化し、矛先が向けられる。ネット上の中傷の書き込みは、その典型だ。
だが、「私たち」と「他者」を分断する人間の思考や差別意識とは無関係に、ウイルスは国籍も人種も関係なく広がっていく。
芝園団地の未来は
結局送別会は中止となったが、日本を出発する前に、自治会の役員数人が少人数の席を設けてくれた。日本人が3人、中国人が1人。間を取ったわけではないが、場所は団地商店街の韓国料理店だった。この3年間、私も名ばかりであったが役員の一人として、一緒に活動をさせてもらった仲間たちだ。
ほかの多くの自治会と同じように、芝園団地の自治会も高齢化と人手不足が課題だ。とはいえ、悲観的な話ばかりではない。私が去っていく一方で、久しぶりに役員に加わってくれそうな、日本人の若い男性が見つかった。中国人役員の楊思維さんがすっかり皆に溶け込んでいるのも、安心材料だ。
楊さんに「1年間役員をやってみてどうだった?」と聞いてみると、「おもしろかったです」という答えが返ってきた。これまでにかかわったことのないような日本の様々な地域活動に参加することが、新鮮だったようだ。
芝園団地の変容は、グローバル化や日本の少子高齢化、労働力不足など、住民レベルを超えた大きな力が働いている結果だ。しかし、翻弄されるがままというわけにはいかない。結果を引き受けるのは、結局生活をする私たちなのだ。
変化を直視し、適応し、前に進んでいく。
ときには前に進んでいるのかわからず、もどかしい思いもする。
それでも、歩いていこう。
■「芝園日記」は今回で終わります。近く、アメリカでの生活や取材をもとにした大島記者の新たな連載を始める予定です。