「顔見えぬ」実習生、地域とつなぐ 宮城・塩釜
震災でますます人が減った。増える外国人は、ただの「労働力」ではなく、共に生きる地域の担い手だ。
赤や水色の色鮮やかなヒジャブで頭を覆い、法被をまとった女性たちがいた。
今年7月の海の日に開かれた「塩釜みなと祭」。日本有数の漁港がある宮城県塩釜市の風物詩で、地元の人たちと一緒に踊り、拍手を浴びていたのは、12人のインドネシア人技能実習生たちだ。
彼女たちは市内に本社がある「ぜんぎょれん食品」で働く。地元特産の銀ザケなどを切り身にし、細かい骨を一本ずつ抜くような作業をしている。約60人が働く工場で、インドネシア人実習生18人は、近くの寮で一緒に暮らしながら働く。全員が若い女性だ。
東日本大震災で東北沿岸部は、基幹産業の水産加工業が大打撃を受けた。水産庁の最近の調査では、売り上げが震災前の8割以上に回復した業者は半分以下。復興の問題点として、最も多い3割が挙げたのが「人材の確保」だった。
ぜんぎょれん食品も石巻市の工場を失うなど大きな痛手を受けた。塩釜の本社工場の津波被害は比較的小さかったが、設備の一部は使えなくなったまま。事業の縮小で従業員は半分近くに減った。それでも震災後、働き手は建設関係などに流れ、日本人は募集しても集まらなくなっていった。
不足を補っているのが、インドネシアからの技能実習生だ。外国人技能実習制度は「日本の技術を学ぶ」という名目で通常3年間、企業で「実習」する制度だが、現実は人手不足の職場を支える労働者だ。人事担当の佐々木健(53)は実習生について「明るくて誰とでも話す。日本人従業員の評判も良く、会社にいい影響を与えている」と満足げだ。「外国人労働者への依存はこれからも高まるでしょう」
宮城県内で働く実習生は、昨年末で約3300人。制度変更で正確に比べられないが、震災前の2010年から3倍ほどに増えたとみられ、全国を上回る急増ぶりだ。
だが、この隣人たちが何者なのか、地域の人たちはほとんど知らない。
3年前、県国際化協会の大泉貴広(48)は、市内の公民館を訪ねて驚いた。小さな部屋に、インドネシア人らが100人以上いたのだ。帰国する同胞のお別れ会で、県内で働く実習生らが集まっていた。
実習生の多くは、街や住宅地から離れた工場などで働き、近くの寮とを往復する毎日だ。実習生を受け入れる企業や仲介業者は一般的に、実習生が職場以外の人とつきあうのを好まない。途中帰国や失踪などのトラブルにつながりかねないからだ。「IS(過激派組織・イスラム国)と間違えられるから、ヒジャブはなるべくかぶるな」。そんな指導を受けた実習生もいる。
「地域がこれだけ多文化になっていることを、日本人はもっと知るべきだし、実習生も社会との接点を持つべきだ」。大泉は16年、全国でも珍しい「技能実習生と地域をつなぐプログラム」を始めた。日本語や食を通した交流イベントや地元の「街あるき」などを実施。昨年からは、「みなと祭」の踊りにも参加するようになった。「働き手としてだけでなく、まちづくりでも地域の力になれると思っている」と大泉。
ぜんぎょれん食品は、この交流プログラムに協力している企業の一つだ。同社で働くフィカ・スリスティヤニ(21)は、ジョクジャカルタ市の高校を卒業した後、現地で受けた面接に合格し、数カ月日本語研修を受けて来日。今年で3年目に入った。交流プログラムのおかげで、大学生など職場以外の日本人と知り合うことができたという。「新しい人と出会って、LINEとか交換して、友だちになります。そうしたら、また会います。この会社で本当によかった」。こうした機会がある同胞の実習生は少ないという。
「あまり行事が多すぎるのもちょっと困る」。人事担当の佐々木は交流に理解を示しつつ、そんな本音も隠さない。夏場は会社にとって繁忙期。祭りの日もできれば休日出勤を頼みたいところだ。「うちの子は、周りから『自由すぎる』って言われるんですよ」。祭りの前にそう話していた佐々木だが、当日は仕事の合間をぬって会場に現れた。「We Love しおがま! それ、それ!」。声をそろえて元気に踊る実習生たちの姿に、「楽しそうだね」と目を細めた。
震災が転機 フィリピン人母、介護現場へ 宮城・東松島
宮城県東松島市の「ひまわりデイサービスセンター」でいま人気なのは、通所する高齢者のための英会話教室だ。2年半前からヘルパーとして働く高橋リャネット(41)が月2回開いている。フィリピン出身の陽気な先生に乗せられ、大きな声で発音するお年寄りの「生徒」は生き生きとしてみえる。
「彼女に来てもらって本当に良かった。利用者さんにも他の職員にも、良い効果が生まれている」。センター所長の阿部朗(40)は絶賛する。リャネットの英会話教室をきっかけに、英検の講座、漢字検定の講座など新しい活動もできた。
厚生労働省が、2020年度までに全国で26万人が新たに必要になると推計する介護労働者。東北でも被災地を中心に人材不足は深刻だ。
経済連携協定(EPA)で外国人を採用する制度もあるが、言葉のハードルが高いのも確かだ。宮城県では震災後、結婚などで日本に暮らしている外国人に勉強の機会を与え、介護の資格をとってもらう動きが広がる。気仙沼市ではフィリピン人ら20人以上がヘルパーの資格を取得し、一部は施設に就職している。昨年度には、県も東北福祉大と提携し、地域で暮らす外国出身者のための介護福祉士の養成講座を開設した。
リャネットは16歳で来日し、静岡県沼津市のホテルで働いていた。そこで知り合った日本人の調理師と結婚した。「大変だったのはそこから」。夫は石巻で代々続く農家の長男。義父はせっかく作った日本料理に、箸をつけようとさえしない。「会話は命令する時だけ」
だが、震災を乗り切れたのも義父のおかげだった。震災前、小さな地震が続くと、「大きな地震が来るぞ」という義父の指示で、食料や水をたっぷり準備した。5人目の娘はまだ2歳。おむつやミルクもたくさん買った。「お年寄りから学ぶことが多いね。大切にしないと」
晩年は優しい言葉をかけてくれた義父は、震災1年後に亡くなった。リャネットは弁当の配達や警備員など、様々な仕事をしながら6人の子どもを育てていた。そんな時、被災地支援をしていたNPOに勧められ、始めたのが介護ヘルパーの資格を取ることだった。 幼い時に父親を亡くしたリャネット。「利用者さんのトイレの世話をしていると、自分の親みたいに思えて、時々、泣いちゃう」。いまは介護福祉士の資格をめざして、難解な問題集と格闘している。
「震災で気仙沼の人だけでなく、外の人ともつながって、世界がすごく広がった」特別養護老人ホームで働くフィリピン出身の軍司マリヴェルと菅原マリア