「欲望の街」の夢の跡 世界最大の時計見本市だったバーゼルワールド
かつて「世界最大の腕時計見本市」として君臨したバーゼルワールド。100年以上の長い歴史があった催しで、スイス北西部の小都市バーゼルに世界中の時計ブランド、バイヤー、ジャーナリストが集結し、新作時計の発表が一大イベントとして繰り広げられていた。しかし、その栄光は2020年の新型コロナ禍を契機に事実上の幕切れを迎え、過去のものになった。この夏、6年半ぶりにバーゼルを訪れ、街の現状を見て考えた。
記者が現地取材をした2019年のバーゼルワールドは、長い歴史を持つ催しが最後に開催された回だった。巨大な展示会場の中に、空きスペースを埋めるようにプレス関係者専用のブースなどがあり、長年この見本市を取材してきた時計ジャーナリストの渋谷康人さんらから「ここには以前、スウォッチグループのブランドのブースが並んでいた」と教えられた。
スイスの地方都市バーゼルは宿泊施設や飲食店が限られており、開催期間中はホテル代が平常時の3倍から5倍に跳ね上がった。飲食店も強気の値上げを繰り返した。宿泊費を抑えるため、私は2019年の取材当時、毎朝1時間超をかけてチューリヒから会場に通っていた。一方、今回の取材で8月半ばに宿泊したのは会場だった施設に隣接するホテルだったが、1泊2万円台。スイスの物価は世界でも屈指の高さだが、今回は欧州の他の都市と比べても、小規模都市ゆえか宿泊料はむしろ安めだと感じたほどだった。出発前に渋谷さんから改めて話を聞いた際、「地元経済も含め、街全体が欲にまみれてしまった」と話していたことが頭に浮かんだ。
バーゼルワールドの崩壊は、コロナ禍が直接の原因というより、長年積み重なってきた運営側の傲慢(ごうまん)さと経済的欲望が限界を迎えた結果だった。大きな転機は2018年。スウォッチグループが突然の撤退を表明したことで、業界全体に「バーゼル離れ」の空気が広がった。
バーゼルワールドの出展料は年々高騰したという。渋谷さんによると「2019年、日本から初めて30代の若い2人組がごく小さなブースを出そうとしたところ、申込期限は過ぎていたが、スウォッチグループの撤退で空いた区画を埋めるため特例で受け入れられた。あの年がすでに『異常事態』の始まりだった」。ちなみに出展料は一区画で約300万円と、彼らのビジネス規模に比して非常に高額だったという。
2020年、新型コロナウイルスの流行によりスイス政府は大規模イベントを禁止。だがバーゼルワールド運営側は最後まで「開催する」と強弁し、直前になって中止を決定した。渋谷さんによると、更なる問題はその後の対応だった。延期を告げた際、運営側は「来年1月に出展するなら半額返金、出ないなら2~3割しか返さない」と告知した。すでに全額を払い込み、ブース施工まで済ませていた中小ブランドは大混乱に陥った。
返金問題で中小ブランドは本当に苦しみ、ロレックスが出展者代表として「せめて弱小ブランドには返金を」と運営側に交渉する場面もあったという。最終的に大手も愛想を尽かし、2020年にはロレックスやパテックフィリップが脱退を表明。バーゼルワールドの崩壊が決定的になった。
渋谷さんが記憶に残る出来事として挙げるのが、あるブランドが会場近くのレストランの壁に貼り出した巨大な批判広告だ。「高すぎる出展料に抗議し、『俺たちは出たいのに出られない』という怒りのメッセージを堂々と掲げていた。象徴的な光景でした」
現在、「世界最大の腕時計見本市」は、ロレックスやパテックフィリップがバーゼルから発表の場を移し、ジュネーブで開かれているウォッチズ&ワンダーズ(WW)だ。「バーゼルよりも出展料の透明性が高いうえ、都市の規模も大きいなど、健全化している印象がある」と渋谷さんは語る。
バーゼルワールドを運営していたMCHグループに7月、このイベントが崩壊した理由や当時の出展料、2020年の返金をめぐるトラブルの詳細のほか、同様の催しを今後開催する計画の有無などについて質問を投げかけたが、3カ月経過しても返答はなかった。