スイスの名門で上り詰めた元プラモ少年 ジャガールクルトの浜口尚大さん
スイスは機械式時計の本場。その中でも時計産業が集積するジュウ渓谷は「聖地」と呼ばれる。ここで名門ジャガー・ルクルト(JLC)の生産現場を率いるのは、48歳の浜口尚大(たかひろ)さんだ。
分業の進む時計業界にあって、1833年創業のJLCは一つ屋根の下、全工程を社内でまかなう。文字盤を裏返しにしてガラス面を保護することができ、スポーツをする際にも外さずにすむようになった1931年の「レベルソ」など数々の名作を生み出してきた。エントリーモデルで100万円超、複雑な機構のものは億円単位の価格の時計をそろえている。野球で例えるなら、名門がひしめくスイスで有力ブランドの屋台骨を支える浜口さんは、「時計界の大谷翔平」的スターといえる。
山口県下関市で育った。幼い頃からプラモデルが好きで、手先が器用だった。高校時代には「時計師になりたい」と心に決めていたという。卒業後、19歳で単身スイスへ。まず語学学校に2年。その後、時計師養成学校を飛び級で卒業し、高等職業訓練学校へと進んだ。より複雑な機構を学ぶ、狭き門だ。
時計修理や高級な機構の復元に特化した課程を選んだ浜口さんは、他の学生よりも早く腕を上げていく。「小学校の工作の延長のような感覚でした。細かい部品を組み上げるのが楽しくて仕方なかったんです」。しかし、気づいてしまった。「元々の構造に敬意を払って復元するのが修復の仕事。でも、トラブルの原因が分かっても改良できない。少しもどかしかった」。学生のうちから、これまでなかった新機構の開発を目指すことになる。
卒業制作では、既存のムーンフェーズ(月の満ち欠け表示)とは一線を画す、リアルな表示に挑んだ。それまでは、満月が隠されていく仕掛けで、いわば月食。球状の月に太陽光が当たって生じる満ち欠けとは、実は見え方が異なっていたからだ。有力ブランドでさらに改良され、実際に商品化されることになる。
2003年に卒業後、スイスで働くには困難もあった。「就労ビザが出にくい時代でした。スイス人の妻と結婚していたこともあり、なんとか就職できたのだと思います」
時計機構の設計で知られる「ルノー・エ・パピ(現APル・ロックル工房)」に入り、キャリアは加速する。2008年にはオーデマピゲ本社に、2012年には様々な高級時計ブランドのムーブメント(時計内部で時を刻み針や各種表示を動かす心臓部)開発で知られるヴォーシェへ。2019年、ついにJLCに迎えられた。現在は内部機構だけでなく外装まで、開発の工程全体を統括する。
「強みは、設計も実技も両方できること。時計業界では二つの部門は分かれているので、僕のような人材は珍しい。設計担当の多くは、図面は描けても、部品を組み立てるときの感覚までは分からない。でも僕は『ここは部品が干渉する』『この構造では摩耗が早すぎる』と問題点が頭に浮かぶ」。二刀流であることも大谷選手と重なる。
最近では大手ブランドに属さない「独立時計師」への注目も集まっているが、一人で全部やろうとは思わない、という。「JLCはすべての製造工程を社内で完結させられる数少ないブランド。素材開発から装飾まで、それぞれの専門家がベストを尽くした結晶が、今僕が関わっている時計。だからこそ、この立場を極めたい」
スマートウォッチ全盛の時代に、機械式時計の意義はどこにあるのか。そう尋ねると、口ぶりに力がこもった。「電気を使わず、手作業と知恵だけで動く精密な機構。機械式時計って『機能する美術品』なんです。飾るだけの美術品と違い、時計は芸術性を持ちながら実際に動く。ジュエリーとはそこが違う。ロマンを感じる」
巻かれたゼンマイがほどける力で動く機械式時計。脱進機という機構でスピード調整し、歯車など多数の精密部品を組み合わせて針を動かす。通常、百数十ものパーツが使われている。
それが、浜口さんが開発を統括する複雑機構時計となると、トゥールビヨン(時計の向きによって生じる誤差を相殺するために内部機構をゆっくり回転させる仕組み)やミニッツリピーター(音の組み合わせで現在時刻を知らせる)、修正不要な永久カレンダー(うるう年や大の月・小の月対応など高度な技術が必要)が組み込まれ、部品数は1200点を超える。「開発に7~8年、検査にも膨大な時間がかかる。僕が来て最初に提案したムーブメントが、今やっとプロトタイプになったところ。10年先を見て開発している感覚です」