宮城県石巻市の佐藤美香さん(45)は、東日本大震災で長女の愛梨ちゃん(当時6歳)を亡くした。高台にある幼稚園は津波を免れたが、沿岸部に住む子どもたちと一緒に乗せられた送迎バスが津波にのまれ、その後の火災に巻き込まれた。
地震発生から2日半近くたった2011年3月14日午前0時過ぎ、眠っていた当時3歳の次女(13)が急に泣き出した。「ママ!ママ!汚い!」と叫ぶと、すぐに力が抜けたように眠る。また突然起きて、「ママ、大好き」とだけ言った。美香さんは「あれは愛梨の口調だった。最後に別れを告げに来てくれたんだろう」と思った。
遺体が見つかったのは、その数時間後のことだった。海側から幼稚園に向かう坂道に黒こげのバスが転がり、近くのがれきの下に3人の園児が抱き合うように倒れていた。顔はわからず下半身とひじから先はなかったが、11日朝に着せた白いジャンパーの切れ端が肩に残っていた。「抱きしめたかったけど、崩れてしまいそうでできなかった」
のちに、現場近くに住む人から「夜中0時ごろまで『助けて』という子どもの声がしていた」と聞いた。停電で真っ暗だったため、どこにいるかわからなかったが、その後爆発音がして火災が起きたという。
毎年、愛梨ちゃんに手紙を書く。「思いを届けたい」からだ。3月の命日には、墓がある石巻市内の寺で供養してもらっている。最初の1、2年は娘に話しかけるように書くことができた。ところが、「年月を重ねるにつれ、どの年齢の愛梨に書けばいいのかわからなくなった」。時がたてば心も落ち着いて書きやすくなると思ったが、逆だった。
6歳の時はほぼ平仮名しか読めなかった。でも、学校にあがれば漢字も読めるようになっているはずだ。平仮名で書けばいいのか、漢字で書けばいいのか。興味や関心も変わっているだろう。そんなことを考え始めると、つらくなりペンが進まなくなる。
昨年3月、幼稚園の同級生が愛梨ちゃんの写真を囲んで撮った中学の卒業式の写真を届けてくれた。同級生は幼稚園のころの面影を残す子もいれば、まったく様子が変わって気づかない子もいる。生きていれば、いま高校に通っているはず。でも、記憶に残る娘は6歳のまま。頭の中でその時間の差を埋められない。涙が止まらなくなった。
毎年、誕生日やクリスマスにはプレゼントを仏前に捧げる。「もう子どもっぽいものは欲しくない年ごろのはず」。年齢を重ねれば趣味も変わるだろう。次女と相談して、時計やイヤリングなど年齢にあったものを贈るようにしている。
「愛梨を忘れてほしくない」。そんな思いから、震災の「語り部」として防災を訴え、愛梨ちゃんが見つかった場所に咲いていた白いフランスギクの種を配り全国の人に育ててもらう活動に取り組む。
「私の心には二つの時計がある」
決して交わることのない二つの時間。手紙を書くときは、6歳のままなら読めないかもしれないから、漢字の上には必ず仮名をふる。そして最後にこう書く。「愛梨のこと 大好きだよ 愛しているよ」(星野眞三雄)