――2017年に「津波の霊たち」の英語版を出版しました。東日本大震災を主題に本を書こうと思ったのはなぜですか。
震災が起きた時、私は日刊紙の記者として3月13日朝には宮城県に入り、現場から様々な記事を書きました。ただ当初から、このような巨大で複雑な災害は1本の記事や、長い特集記事であっても書ききることは不可能で、書籍が向いていると感じていました。書籍でもすべてを書くことはできません。ですから、巨大な災害を象徴するような一つの物語を取り上げて、その詳細を書こうと思いました。しばらくたって石巻市立大川小学校の悲劇を知りました。一つの場所であまりに多くの子どもの命が失われた、非常に痛ましくひどい話だと思いました。単なる自然災害ではなく、人災でもありました。そこで、震災発生から半年後に取材に入りました。
――書籍では似た境遇の遺族たちが支え合いますが、ある時から反目したり、異なる道を歩んだりする様子が描かれます。
日常の仕事もあったので執筆は容易ではありませんでしたが、何度も現地に通い時間をかけることで、人々は私を信用し、体験したことを詳しく話してくれるようになりました。そして、この悲劇には様々な観点がありうると気づきました。物的な破壊があり、命が失われ、その喪失を抱えて生きる苦しみもその一つですが、もう一つは、それによって人々が引き裂かれていく悲劇です。
災害時、人は誰もが一筋の希望を見つけたいと考えます。そうでなければ、現実は耐えがたいからです。災害が起きると、人々は人間の最善の部分を引き出し、見知らぬ他者を助けて支え合い、絆が深まるという光明を慰めに感じます。事実、そのようなことは起きます。しかし、同時に逆のことも起きるのです。人々はばらばらになり、他者への疑念と怒りを増幅させます。彼らのせいではありません。災害で負ったストレスと痛みのせいであり、それもまた悲劇の一部分なのです。そのことについても正直に書きました。
――著書の半ばに「私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた」というくだりがあります。どんな思いだったのでしょうか。
震災直後から東北の被災地に入り、2、3週間取材して東京に戻る、というのを繰り返していました。数十万人が家を失い、学校の体育館や寺に身を寄せざるをえない絶望的な状況にもかかわらず、そうした場所は直ちに組織だって整理整頓され、人々は物資を分け合い、家族ごとに場所を割り振り、私が見た限り、ののしり合いも深刻な略奪行為もありませんでした。私のみならず、被災地に駆けつけた外国人ジャーナリストは皆、同じように感銘を受けたと思います。これが日本社会が持つ長所の表れなのだと。政府から命じられるのではなく、地域社会が自ら動いていたのです。これが英国や欧州だったらと想像すると、おそらく人々は争い、怒り、動揺するでしょう。そして「政府は何をしている」と行政に不満をぶつけるでしょう。東北の人々は、はなから政府には期待をしていませんでした。政府不在の中、自分たち自身で秩序を保ったのです。
――日本人は政府に多くを期待していないとも言えますね。
災害以外の状況下で、政府への期待値が低いことは一般的に言って、「悪いこと」になり得ます。原発事故がいい例です。あれは人災であり、完全に回避可能でした。設計のまずさ、計画のまずさ、津波など自然災害の脅威に対する原発の脆弱(ぜいじゃく)性への意図的な無知が引き起こした結果なのです。
ドイツなど欧州のいくつかの国で原発は終止符を打たれました。けれど、事故が起きた日本では、地震と津波に脆弱な国土でありながら、今も原発を使い続けています。あくまで日本人が決めることですが、世論調査を見れば、多くの人が原発政策に賛成していません。それなのに、それをデモや抗議活動、野党支持という形で表明しません。被災地で見た「我慢」の別の一面です。人々は政治や政治家に有害な「我慢」をして、まるで政治という天災の、非力な被災者のように、なすすべもなく耐えています。しかしそれは政治のあるべき姿ではありません。日本のような民主主義国家においては、人々こそ、自分たちの政治家に直接の責任を負うのです。ですから、日本人の自然災害下でのレジリエンスはかけがえのない立派なものですが、同時に消極性と、日本の政治に責任を負うことへの怠慢にもつながっていると感じます。もちろん、行動を起こした人もいますから、すべての日本人に当てはまると言いたいわけではありませんが。
――被災地の人々はどのように喪失と向き合い、どう変化していきましたか。
悲嘆は非常に個人的なもので、人によって感じ方も向き合い方も異なります。ですから、私の仕事はそうした異なる方法を書き記すことなのだと思います。私は幸運にも取材に応じてくれる人を何人か見つけましたが、おそらく深く傷つき絶望している人の多くは記者に話したくもないでしょう。実際、取材を断られたことも何度もありました。ただ、大変な喪失と痛みを抱えながらも、小学校で何が起きたかを世界に広く知ってもらいたいと考えている人を見つけ、話を聞くことができたのです。今、東北地方の復興は目覚ましく、がれきは取り除かれ、街はきれいに整備されました。物的な損害はおおむね修復され、津波に襲われたと言われなければわからない所も多いです。まるで傷痕を残さず治った切り傷のように。ですが、私が思うに、人々の心の深い悲しみは強烈に残ったままで、長い時間、消えないでしょう。物質的な「正常さ」への回帰がむしろ、心の苦しみを受け入れがたくしています。被災の状況を知らない人は、被災者を気にかける理由もないからです。おそらく人々は静かに、見えないところで苦しんでいるのではないでしょうか。
――著書では東北地方で霊に取りつかれた人を救う僧侶にも取材しています。こうした幽霊の物語を聞いて、どう感じましたか。
個人的に超常現象は信じませんが、努めて心を開き、注意深く話を聞きました。超常現象を、幽霊以外で説明することも可能だと思いますが、重要なのはそこではありません。霊体験をした人々にとって非常に生々しく意義深いということが大切なのです。現象を「死後も人の霊魂が残る証拠」と考えることも一つの解釈ですが、私は、そうした物語が別の意味を持つと考えます。それは、人々が経験した災害の猛威と苦しみが、個人レベルではなく、地域全体に伝わっているということです。
僧侶が除霊した人々は、震災で家財も家族も失っておらず、直接の被災者ではありませんでした。それでも霊にとりつかれたのは、おそらく震災の恐怖を取り込み、それが表出したためではないでしょうか。恐怖は、人によっては酒におぼれたり、うつ状態になったり、家族と不和になったりします。その一つが霊に取りつかれることだったのかもしれません。幽霊が本当にいるかいないかは重要ではありません。彼らにとってはリアルなのですから。日本の怪談文学のように、存否の域を超えた、象徴的な意味があるのだと思います。
Richard Lloyd Parry 1969年、英国生まれ。英タイムズ紙アジア編集長兼東京支局長。95年に英インディペンデント紙特派員として来日。20年以上、東京に暮らす。著書に英国人女性の失踪殺害事件を追った『黒い迷宮』(早川書房)、東日本大震災の津波で84人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の遺族らを描いた『津波の霊たち』(同)。2019年に日本記者クラブ賞を受賞。