腕時計を買いたくても買えない 狂騒曲の現在地
日本でも知られるロレックスやパテックフィリップなどのブランドが集い、毎年4月にスイス・ジュネーブで開催される世界最大の高級腕時計見本市「ウォッチズ&ワンダーズ(WW)」。空港に程近い巨大展示場を舞台にブランド別のブースが並ぶ。スーツ姿の男性や華やかなドレスをまとった女性たちが行き交い、話題の新作時計が展示されている場所には人だかりが出来ていた。今年は世界中から過去最多の5万5000人超(前年比12%増)が訪れた。
このうち小売業者が6000人(同5%増)、報道関係者は1600人(同7%増)。英の俳優シモーヌ・アシュリーのほか、ウサイン・ボルトやロジャー・フェデラー、カール・ルイスといった著名アスリートも来場した。1週間の会期前半は商談がメインで、食事やシャンパンが無料で振る舞われる。後半は平日なら50スイスフラン(約9300円)、週末は70スイスフラン(約1万3000円)と有料での一般入場も可能で、チケット販売は最多の2万3000枚(同21%増)という盛況ぶり。ここで各ブランドが発表する新作は、一部の女性もの宝飾時計を除き、ほとんどが機械式腕時計だ。
電池式とは違い、機械式時計はゼンマイが巻かれなければ止まってしまう。手巻きとは限らず、身につけていれば揺れを利用してゼンマイが自動巻きされる時計も多いが、腕から外したら数日間しか動かない。それに、どれだけ高精度に仕上げたところで、スマホ画面に浮かぶ時刻表示に正確さでは負けてしまう。なのに、一部で熱狂的な人気を呼んでいる。
「高級機械式腕時計が、正規店で購入できない」。そんな声を聞くようになったのは10年ほど前から。中国など新興国で富裕層が増えたことが背景にある。いずれもスイスの名門のロレックスやオーデマピゲ、パテックフィリップなどの一部スポーツタイプ(スポーツや潜水・登山など過酷な環境下で使える耐久性を備えた時計)は需要が供給を完全に上回り、2次流通価格も定価の数倍にまで高騰。ブランド価値の低下要因にもなると見たメーカー側は、「転売ヤー」を警戒し、従来の顧客だけを対象にする販売手法にシフトしていった。また、コロナ禍が外食産業や旅行業界に急ブレーキをかけた一方、時計を資産だと捉え、お金を振り向ける人も増えて、熱狂に拍車がかかった。
一大生産地スイスの時計輸出額は2021年から3年連続で過去最高を更新し、スイス時計協会によると、昨年は260億スイスフラン(約4兆8000億円)。うち8割が3000スイスフラン(約56万円)以上の腕時計で、この価格帯のほとんどが機械式となる。日本時計協会の広報担当者は「機械式時計の売上額ベースでは、世界全体のほとんどをスイス製が占めている」と明かす。
八角形のケースが特徴的で、一目でそれと分かるオーデマピゲの代表作「ロイヤルオーク」の定番はステンレス製で定価522万5000円。顧客への声掛けのみで正規店の店頭にはまず並ばないと言われるロレックスのクロノグラフ(ストップウォッチ機能付きの時計)「コスモグラフ デイトナ」は234万9600円。それでも愛好家たちの間で取り合いになっている。
スイスの歴史あるブランドIWCが昨年発表した「ポルトギーゼ・エターナル・カレンダー」という腕時計には400年で1回転する歯車があり、グレゴリオ暦の複雑なうるう年に対応している。時計が止まらなければ、名前の通り、日付は永遠に修正不要ということだ。月の満ち欠けを表示する機能も理論上、4500万年に1日しか狂わないという。もっとも、機械式時計には数年に1度の分解清掃が推奨されているのだが……。ちなみに、値段は「要問い合わせ」とされていたので尋ねたところ、日本円換算で3000万円弱だった。
熱狂とともに闇も広がる。それを裏付けるような事件も起きた。業界では「フランケンシュタインウォッチ」事件と呼ばれている。
21年、著名なオークションハウスでオメガのビンテージ時計が約3億8700万円で落札された。1957年に発売された名作「スピードマスター」の初期モデルで、様々なパーツが発売当時のままのオリジナルという極めて貴重な時計、という触れ込みだった。
ところが、これが後に、製造年代の違う部品が組み合わされた「フランケンシュタインウォッチ」と呼ばれる品だったことが判明する。オメガにはこれまでの時計製造の記録が残されており、持ち主が120スイスフラン(約2万2000円)を支払えば、自分が所有する時計が何年何月に製造され、どの国に出荷されたのかが分かる証明を受けられた。問題の時計には1957年製造との証明書が付属していたが、オメガの当時の幹部社員がこの時計の証明書偽造に関与した上、オメガ自身に落札を持ちかけたとされる。つまり、「本物」とのお墨付きを与えて犯罪に加担したのだった。こうした「錬金術」のような手口で大金を手にすることも可能な時代になったのだ。
「発売時の状態と違うのでは」「別の時計の文字盤に酷似している」……。偽装を見抜いたのは、インターネット上で情報交換したり発信したりしている、カルト的な愛好家たちの集合知だった。
時計産業は16世紀、フランスのパリで勃興した。自らの職業に励む時計職人たちの多くはプロテスタント。カトリック側から激しい弾圧を受けたため、国境を越えたスイス・ジュラ山脈の山あいのル・ロックル、ラ・ショー・ド・フォン、ヌーシャテルなどへ逃れた。これが現在まで続く、時計産業における「スイス一強」の源流だ。
そのスイスを、かつて最も脅かしたのは日本だ。1969年、セイコーが高精度のクオーツ時計「アストロン」を発売。70年代に入ると機械式が中心だったスイスの各ブランドは売り上げを大きく落とした。俗に言う「クオーツショック」である。
腕時計の主流はやがて、安価になったクオーツ時計に置き換わっていく。一方で、機械式はクオーツとは別物扱いされ、工芸品・芸術品としての魅力が見直されて今に至る。電気や、電波など外部からの助けを必要とせずに自己完結している、金属製の精密パーツがぎっしり詰まった時計。そこに愛好家たちはクラフツマンシップの価値を見いだしているのだ。