スイス人は、自分たちのチーズを誇りに思っている。種類でいえばグリュイエール、エメンタールを始めとする硬いタイプがほとんどで、原料は世界的に有名な「幸せな乳牛」(訳注=スイスには厳格な動物保護法があり、牛1頭あたりの家畜小屋の広さ、飼える子牛の総数などに規制がある)から採れる生乳だ。チーズの消費量も多く、年間1人当たり50ポンド(22.68キロ)を超える。米国では、それは約40ポンド(18.14キロ)にとどまっている(訳注=日本は2020年で2.7キロ)。
「チーズは、国民性の重要な一部」とダニエル・コッラーは誇らしげに話す。この国の乳業協会「スイスミルク」の役員の一人だ。それだけに、協会の会長が2023年7月に地元紙に語った最近の傾向が、嵐のような反響を巻き起こした。スイスは今年、輸出量を上回るチーズを輸入する見込みだということを明らかにし、「経済的にも、社会的にも、環境保護の面から見てもおかしい」と論じたのだった。
確かに、スイスのチーズの貿易収支を見ると、もう何十年にもわたって黒字幅が減り続けている。その傾向は、2007年を境に著しくなった。欧州連合(EU)との間で相互に関税が撤廃され、量的な制限もなくなった年だ。業界の推定では、スイスは現在、生産量の約40%を輸出に回している。
しかし、2023年の1~5月を見ると、どの月をとっても重量ベースで輸入が輸出を上回った(税関当局調べ)。一つには、スイス人が外国製チーズの味を覚えたからだろう。スイスミルクによると、国内で消費されるチーズに占める国産品の割合は2007年に77%だったが、2022年には64%にまで落ちている。
スイスの酪農家の数も長らく減り続けている。この25年間では半減超の落ち込みになってしまった、とコッラーは嘆く。加えて、スイスは酪農家の規模が小さい。乳牛の平均飼育頭数は27頭前後で、100頭を超えるところは珍しい。
外国産チーズの流入は、(訳注=自前のチーズに舌鼓を打つ)スイス人のイメージへの挑戦にはなるのかもしれない。ただし、うろたえるほどのことではない、とエコノミストたちは指摘する。
スイスのチーズ生産者はここ数年、特定産品への専門化を進めており、グリュイエールのような高価格帯のチーズを輸出する傾向にある。これに対して、輸入されるのは安価で、柔らかいタイプのチーズが目立ち、フランス産が多い(米国で「スイス・チーズ」と呼ばれているのは、スイスの硬質チーズを模した複製品で、もちろんその象徴であるあの「穴」も開いている)。
加えて、輸入チーズのすべてがスイスで消費されるわけではない。大量のチーズとその原料となる凝乳はスイスで精製され、輸出に回される。
「だから、チーズの貿易収支の数字自体が懸念すべき材料になるわけではない」とマルティン・モスラーは語る。スイス・ルツェルン大学の経済政策研究所IWPのエコノミストだ。
「高級チーズに関する限り、スイスはおおむね世界のどこよりもよい状況にある」と強調し、チーズの経済価値で見る限り健全な貿易収支が続いている、と太鼓判を押す。スイスから輸出されるチーズは、平均で1キロあたり10スイスフラン(約11.6ドル)を稼ぐ。一方の輸入ものは6スイスフランしかしない、と具体的な数字を挙げる。
インフレもスイスのチーズ貿易に影響している。2021年は、輸出が記録的に好調だった。しかし、その翌年は落ち込んだ。最大の市場であるドイツが厳しいインフレに見舞われ、買い物客の財布のひもが固くなった。スイスフランが強かったことも、ドイツでの価格を押し上げ、不利に働いた。
「消費者は価格に敏感だから」とモスラーは肩をすくめる。
逆に、強いフランが輸入価格を押し下げ、輸入量が拡大したことは、スイスの消費者にとってはよいことにもなりうる。より安い価格の選択肢が増えるわけで、「スイスという国にとってもよいことになる」とモスラーは話す。
しかし、安めのチーズを作っている酪農家には、この貿易収支は打撃だったかもしれない。
チューリヒ工科大学教授のロバート・フィンガーによると、スイスの牛乳価格はこの数年間、チーズ原料の生乳を含めて値上がりしている。だから、「あまりにひどい状況が生じている」とまではいえないが、スイスの酪農家数はほかの欧州諸国と同様に減り続けている。チーズの輸入量が増えていることとの強い因果関係はなく、ほかの経済的、社会的要因によるところが大きい、とフィンガーは説明する。
米国でも、似たような傾向が続いている。酪農家数は、1997年から2017年の20年間でほぼ半減した。食料品体系の変化にうまく乗り切れなかったことが原因の一つだが、家族経営の小規模な酪農家の多くが姿を消したことと、この間に世界中で乳価が低迷したことが響いた、とハンナ・トレンブレイは見ている。農業系NPO「ファーム・エイド」の政策・支援運動部門の責任者だ。
先のスイスミルクのコッラーは、スイスの消費者のためにスイスのチーズを作り続けることの大切さを説く。協会の活動目標の一つは、高品質で環境にやさしいチーズ作りにこだわる国産品の購入をスイスの消費者に勧めることにある。
ただし、味の好みはさておき、EU諸国の製品の品質と水準が、多くの場合はスイス産と著しくは違わないということもコッラーは認めざるをえない。
「チーズのためだけに国境を閉ざすというのも意味がない」と先のルツェルン大学のモスラーは、ここでも明快だった。(抄訳)
(Claire Moses)©2023 The New York Times
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