ニューヨーク市内のワインバーブームがすごい。素晴らしい選択肢がみるみる増えれば、老舗も負けじと本領を発揮する。
新しい店がわき出るようにあちこちにできている。でも、開店した数とは関係なく(たとえそのうちのいくつかがとても居心地がよく、魅力的だったとしても)、筆者にしつこく付きまとう疑問がある。「ワインバーって、そもそも何だ。レストランとは、どう違うんだ」
すご腕のシェフが最高の料理を出すので、予約をとるのが大変な市内の本格的なレストランが、当たり前のようにワインバーと呼ばれている。Claud(以下、店名は原文表記)やContento、Chambersといった店だ。
一方で、フラッと立ち寄るようなところも、ワインバーと呼ばれる。ちょっと一杯。つまみは缶詰からそのまま出てくる。
みんな、「ワインバー」でいいの? それとも、この言葉の定義はあいまいで、意味がないに等しいのだろうか。その答えは――だれに尋ねるかによって違ってくる、といえそうだ。
「これは私たちもかなり格闘した難問だ」とチェイス・シンザーは苦笑する。マンハッタンのイーストビレッジにあるClaudのオーナーで、ワインを扱う責任者でもある(ちなみに、筆者もひいきにしている店で、レストランという印象が強い)。
「その答えは結晶のようにきれいには出てこない。『ワインバー』と呼ぶのが好きな人がいるのは、よく分かっている。では、うちの店をどう呼ぶか。それは人それぞれにお任せしたいが、個人的にはClaudはレストランにより近いと思う」
筆者は自分なりにワインバーだと見なしている市内の店に、もう何十年も行っている。典型的なフランス式の「bars a vin」、イタリア式の「enoteche」、スペイン式の「bars de tapas」など、世界のワインバーの原型になった店だ。
それ以外にも、歳月をかけて何十もの店を訪ねてきたが、多くの店はできたかと思うと、跡形もなく消えた。中にはとても楽しい思い出を残してくれたのに、あまりに早く閉めたところもある。
筆者は2022年10月、マンハッタンとブルックリンの全域でワインバーを巡りながら、この街のワインバーの歩みについて改めてよく考えてみた。
多くのバーは主にフランスとイタリア、スペインのワインと料理を出している。でも、オヤッと思うバリエーションもある。ウェストビレッジのThe Lavauxは、スイスのワインと料理に特化している。アッパーイーストサイドのKaiaは、南アフリカのワインと食事が売りだ。クリントンにあるCasellulaは、ワインと同じようにチーズにも力を入れている。
そんなワインバーはこの何十年か、ニューヨークのワイン文化の進化とともに発展してきたようだ。
1970年代の終わりから80年代の初めにかけては、まだ目新しかった。だから、教育的な姿勢が目立った。給仕する方は複雑この上ないブドウの生育環境やワインの製造法について、覚えたばかりの知識を熱心に伝えようとした。このやり方がヒットしなかったのはなんの不思議もない。客がバーに行くのは、飲んで食べて交際を楽しむためだ。教えを請うためではない、というのが普通だろう。
新世代のワインバーが90年代の半ばに登場してくる。欧州のルーツにもっと近いスタイルだった。ちょっと立ち寄り、軽く飲んで食べるカジュアルな店。講習の場ではなく、快適にくつろげることに重点が置かれた。45分でも夜通しでも楽しめる――この方式は受け継がれ生き残った。
成功した方程式は繰り返される。シンプルでカジュアル、高くはない。では、最近のワインバーの最もよい店と、最も長く続いている老舗との違いはどこにあるのだろうか。それは店の個性と、知恵を絞ったワインの品ぞろえの両方にあるように思える。
とくに品ぞろえだ。新しい店はワインの奥深さを極めるように、しばしば最高級のボトルを何種類も用意している。ときには、珍しい銘柄も入っている(常にというわけではないにしても)。例えば、筆者が大好きなロウアーイーストサイドのGem Wine。150種類ほどをそろえているが、100ドルを超えるボトルはほとんどない。多くは、それよりかなり安い。
グラス類も大切だ。そんなにたくさんそろっている必要はない。ただ、バリエーションの豊かさは欠かせない。
料理はシンプルでよい。付け合わせとして、由緒あるシャルキュトリーもしくはサルーミ(訳注=仏語とイタリア語でハムやソーセージなどの食肉加工品全般のこと)とチーズ類があれば、もっとよい。これに種類は少なくてよいから、腹にたまる食事とサラダ類が加われば、十分だろう。軽食を求める客も、主食を求める客もいるはずだからだ(もっとも、レンジのないワインバーもたまにはある)。
よいワインバーは近所の人がよく集まるくだけた感じの店に多い。ワインリストが膨大で、品評会で受賞した銘柄や、珍しい銘柄を求めるオタクを引きつける店にもよいところがあるが、むしろ例外だろう。そんなところに出向くまでもない。たいていは自宅近くの立ち寄りやすいところにある。予約を受け付けているかもしれないが、しなくても入れることがほとんどだ。
ワインバーは若者の求めに応じたところが多い。筆者が訪ねたどの店でも、客は自分よりかなり年下の人ばかりだった。例外はあるとはいえ、夜更かし型の地域にあることが多く、その日の仕事が終わったあと、すぐに家路につきそうもない客の姿が目立つ。
そんな状況から、最近オープンしたワインバーの最もよい店の多くは、若いワイン愛好家に人気の銘柄に品ぞろえの力点を置いている。
(訳注=化学肥料や薬品を使わず。限りなく自然に造った)ナチュラルワインや(訳注=発酵前のジュースの段階で果皮を漬け込んだ)スキンコンタクトワイン、(訳注=白ブドウで赤ワインのように醸造した)オレンジワイン、(訳注=南オーストラリア産のナチュラルワイン)ペティアン・ナチュレル……。クラシックなナパバレー・カベルネやボルドーの類いを置いている店は、肩身の狭い思いを迫られている。店の趣も先のClaudやChambersといったレストランとは異なってくる。
Claudのような店は、思い出に残る料理を期待して予約をとる。ほとんどのレストランと同じように(訳注=食事の前に利用する)バーカウンターを目当てに来る客もいるかもしれない。ただ、グラスワインを一杯飲むだけのために来る客は、まずいないだろう。
「ワインバー」という用語には、「レストランというところを気軽に体験できるという意味合いが内包されている」と先のClaudのシンザーは指摘する。「その体験が店への愛着を高めてくれる」
まさに核心を突いていると思う。偉大なワインバーは、身近なところにある。そして、そこが「わが場所」となる。(抄訳)
(Eric Asimov)Ⓒ2023 The New York Times
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