カリフォルニアワインと言えば、名産地のナパ、ソノマをイメージする人は多いだろう。「ワインカントリー」と呼ばれるこの地域には、広大なブドウ畑と1000件を超えるワイナリー、究極のファームトゥーテーブル系レストランが集まる全米屈指のワイン王国だ。世界からの観光客は元より近隣住民にとっても癒しの場所となっている。
今から約1世紀以上前の1875年、ようやく開拓者によってブドウ栽培が始まりだしたこの土地に、一人のサムライが足を踏み入れた。実はこのサムライは、後に実業家となってカリフォルニアワインビジネスの繁栄の礎を築き、この地をワイン王国に導いた人物なのだ。そんな知られざる「ワイン王」の物語を紹介したい。
去年10月、ワインカントリーを大規模な山火事が襲った。青い空と緑のブドウ畑の景色は、まるで白黒映像のように一変してしまった。空を覆う灰は90マイル離れたサンフランシスコの街まで達し、グレー色した太陽はまるで泣いているようだった。そんな中、ソノマの「パラダイスリッジワイナリー焼失」というニュース速報が飛び込んできた。「パラダイスリッジ」。私にとってとても思い入れがあるワイナリーが焼け落ちたというのだ。
2年前、私はパラダイスリッジを訪れた。オーナーの案内で併設の展示場にあるガラスケースを見ると、そこに展示されていたのはなんと、羽織、袴と武士の刀!「実はこのワイナリーは1934年まで、日本人によって経営されていた土地なんだ」というオーナーの言葉に耳を疑った。
「サムライがワイナリー経営を?」。半分笑いながら聞きかえすと、「そうだ」という。映画ではないのだし、サムライがどうしてこんな異国でワイン作りをしたのか、私の好奇心はマックスに達した。
皆さんは、長澤鼎(ながさわかなえ)という人物をご存知だろうか? 実はその人物こそ「カリフォルニアのワイン王」と呼ばれたアメリカ史上にも名前を刻む英雄で、おそらく日本人初の米国移民者である。薩摩藩士だった長澤がワインメーカーとして実業家となったレジェンドは江戸時代まで遡る。
1865年、時は幕末。開国か攘夷かで日本が揺れていた時代、薩英戦争を経験した薩摩藩は、そこで西欧の文明と海軍技術の落差を思い知らされた。薩摩藩は、欧州の文明と技術を日本に取り込むため、若い藩士達を密航という形で英国留学に送り出した。選ばれた15人の中で長澤は、まだあどけなさが残る13歳で最年少だった。他には五代友厚(ごだいともあつ)や森有礼(もりありのり)らの顔ぶれもあった。幕府から海外渡航は固く禁止されていた為、「長澤鼎」という名前は藩による変名。その名前を生涯貫くことになる。
長澤は英国に渡っても若すぎた為、大学には入れず、英国北部でホームステイをしながら高校に通い、抜群の成績を収めたという。約2年後、ほとんどの留学生は帰国したが、長澤と他5人は新興宗教家で思想家のトーマス・レイク・ハリスと出会い、彼が率いる教団コロニーがある米国ニューヨーク州に渡る。そこでブドウの栽培やワインの醸造に従事しながら、他の仲間達と自給自足の共同生活を送った。やがて他の藩士5人も帰国し、長澤だけが取り残された。その後、ハリスはコロニーを解散し、1875年、家族と数人の信奉者と共にカリフォルニア・ソノマ郡のサンタローザに移住した。ハリスは新規ビジネスに賭けるパートナーとして、絶対の信用が置ける長澤に全てを託した。ここから「ワイン王」としての長澤伝説が始まる。
長澤のブドウ作りは、当時カリフォルニアで蔓延していた害虫との戦いだった。彼はまずアメリカ品種の弱い苗と害虫に強いヨーロッパ品種の苗をつなぐ「接ぎ木」を導入し、強い品種に改良をする事で克服した。広大な土地「ファウンテングローブ」を開拓して作られたブドウ畑に1882年、醸造所も完成させ、「ファウンテングローブワイナリー」と名付けた。彼が建設した厩舎「ラウンドバーン」も建てられ、ワインビジネスは益々繁栄した。
ハリス没後も敷地は拡大され、ピーク時には生産量は200000ガロンに達し、ブドウ農園は2000エーカーもあったという。パラダイスリッジワイナリーの資料によると、約30000本のワインが保存され、全米へ、そしてヨーロッパへと出荷され、「ファウンテングローブワイナリー」はソノマのワイン生産の90%を占めるまでになっていたという。
長澤の人柄は、口数が少ないが真面目で、人に親切なオーナーだったと伝わっている。従業員は家族のように扱われ、給料も他よりも優遇されたという記録がある。長澤はやがて、「King of grape」の名声を授けられ、「バロン(男爵)長澤」と呼ばれ、財を成したそうだ。
しかし、長澤の快進撃は急に終わりを遂げる。1920年に施行された禁酒法のせいだ。ワインの醸造ラインはストップし、経営困難に陥った。だが、長澤は私財を投じてこのワイナリーを守った。そして禁酒法が廃止された後の1934年、長年、倉庫で眠っていた長澤ワインは再出荷された。カリフォルニアワインの黄金時代に向かって突き進むに思えた矢先、長澤は82年の人生に終止符を打った。残された広大なブドウ農園とワイナリーは、彼の強い希望で甥に託されたが、州の法律により、土地所有の権利は移民者には認められなかった。その後ファウンテングローブは荒廃し、牧草地となり、分配されていった。その後、第2次世界大戦が勃発。日本人移民は皆敵とみなされ、戦後は誰も彼の事を語ることはなく忘れ去られていった。
長澤の名前が再び轟いたのは1983年の事。日本を訪れた当時の米国大統領、ドナルド・レーガンが国会演説した際、長澤の名前を取り上げ、「日本の薩摩スチューデント、ナガサワがアメリカのワイン業界で歴史的な偉業を遂げた」と発言した時だった。彼が丹精込めて作った上質のカリフォルニアワインがヨーロッパや日本にも輸出され、カリフォルニアワインが世界にその名を馳せるようになったのは、彼の功績が大きい。長澤没後60年の1994年、「ファウンテングローブ」跡地の一部を新しい家族経営者が継承した。再びこの地にワイナリーを建設し、長澤レジェンドを蘇らせたのが、「パラダイスリッジワイナリー」だ。
しかし去年の山火事で「パラダイスリッジ」は焼失してしまった。敷地内に設立された長澤記念館や、長年サンタローザ市のシンボル的存在になっていた「ラウンドバーン」も焼失した。数ヶ月後、ソノマの復興の呼びかけに貢献したいと長澤鼎を調べていた時、「長澤の刀が焼け跡から見つかった」という知らせがあり、サンタローザ市のパラダイスリッジワイナリーに向かった。まだ入り口には立ち入り禁止の表示が出ていたが、敷地ではもうすでに再建に向けて従業員達が働いていた。インスタレーション(屋外アート)が点在する敷地内のアートガーデンには鹿児島市から寄贈された千羽鶴があった。ドーム状のアートには100枚程度の布札が結びつけてあり、その中に「Sprit of Kanae Nagasawa」(長澤の魂)と書いたものもあった。
発見された長澤の刀はサンタローザの美術館「Museums of Sonoma County」に保管されていた。焦げてしまった茶色の部分はそぎ落とされ、刃の部分はまだ銀色を残していた。鐔(つば)部分もしっかり刀に接合し、変形せず形を保っていた。その刀を見た瞬間、体が震えた。この刀は薩摩藩士、「サムライ長澤」の象徴だ。薩摩から持ち出した刀はカリフォルニア州まで長澤と共に世界を見て来た。その堂々たる遺品に畏怖を感じた(御親族の話では、オリジナルのものであるかどうかは不明)。13歳から英国で教育を受け、グローバルな感性を身につけアメリカで実業家として成功を収めた長澤は、もはや日本人の顔をしたアメリカ人である。しかし、ぶれない日本への愛国心と生涯貫いた師への忠誠は、持って生まれたサムライ魂だったに違いない。
ナパ、ソノマのワインカントリーは災害から初めての収穫時期を迎え、ビジネスも観光も再び活気を取り戻している。最近では日本企業や個人のワイナリー経営者も増え、サンフランシスコを訪れる日本人観光客の一番人気ツアーがナパ、ソノマのワイナリーツアーだ。「Wine Institute」の2017年の統計によれば、カリフォルニアワインの輸出量は$1.53 Billion(約1750億円)、そのうち輸出国トップ4の日本は$94 million(約1億円)と巨大ビジネスだ。150年前、だれがこのような現象を想像しただろうか。
薩摩藩英国留学生は帰国後もそれぞれが政財界で活躍し、近代社会の礎を築いた。現在サンフランシスコ、ベイエリアには約4万人の日系人が居住している。私達にとって当たり前のように思える自由な国、自由な暮らしの背景には、長澤のような先人の並ならぬ努力と勤勉な姿勢でアメリカに示した「日本人の姿」がある事を忘れてはならない。
火災の後、長澤の名前が再び注目を集めるようになり、「長澤ワイン」はあっという間に完売。サンタローザと鹿児島では、美術館で「長澤伝説」についての展覧会が企画されて話題を呼び、米国では薩摩焼酎や薩摩和牛の輸入も拡大。海を越えて「薩摩」ブームが広がっている。
長澤レジェンドはこれからもずっと“日米の誇り”として語り継がれるだろう。
Special thanks to:
Byck Family and Ken&Jean Ijichi
Paradise ridge winery
Consulate General of Japan in San Francisco
薩摩藩英国留学生記念館