よしさんは太平洋戦争が始まった翌1942年、横浜で生まれたとみられる。出生地がはっきりしないのは戦中、両親や親族を亡くし、5歳で孤児となったからだ。
中学生まで逗子の児童養護施設で育ち、「生きて行く力」を身につけた。よしさんは明かす。
「世の中は暗くても周りの自然は豊かだった。孤児たちは施設のお姉さんらから沢山の愛を受け、野山で遊び、楽しく成長した。素晴らしい出会いもたくさんあった」
日本人の専門家からは華道や茶道などを学び、その後のアメリカ暮らしで強い「武器」となった。
1963年、19歳になったよしさんは日本に駐留していた米軍の将校と結婚。一緒にアメリカに渡った。
夫は上流階級の家柄で、メリーランド州最大の都市ボルチモアにある豪邸で暮らし始めた。
毎週のように邸宅で開かれた豪華なパーティーには教養の高い紳士淑女が集まった。女性はきらびやかなドレスをまとい、上流階級ならではの「マナー」をひけらかしていた。
普通ならこんな恵まれた環境を「アメリカンドリーム」と呼ぶのだろう。しかし、よしさんは孤独を感じていた。
というのも日本はまだ、アメリカ人にとって「敗戦国」のイメージが強く、よしさんら日本の女性は差別されることがあったからだ。
ある日、傲慢な女性から受けた差別発言で、よしさんは目覚めた。
「お金があって何一つ不自由のない暮らしは退屈だった。ここでは”本当の私”は存在しないと悟った」
思い立ったらすぐ行動に移すのがよしさん流。自由を求めて家を出た。「日本人だからこそ教養高く、流暢な英語をしゃべり、彼らと同等でなければと強く思った」。よしさんはそう振り返る。
片道チケットを入手し、向かったのはサンフランシスコ空港だった。何も持たず、知り合いさえいない場所。でもよしさんはワクワクしていた。
「その当時、ヒッピーブームだったの。私は自由な風を受け、自分の足で歩きたかった。だからヒッピーブームの中心だったサンフランシスコを選んだのよ」
よしさんの強運はいつも土壇場で発揮される。降り立った空港で、学生2人に声をかけられた。
彼らはバークレーに住んでいて、たまたま空いたシェアハウスの一部屋を、家事をすることを条件にタダで貸してもらうことになった。偶然たどり着いた地域が、その後の人生の本拠地となる。
富裕層の生活から離脱し、再び1人になったよしさん。お金はなかったが幸せを感じていた。
働きながら勉学に励み、悲願だったUCバークレー校に編入、ダンスとアートを専攻した。
名門校に通いながら生計を立てるには、アルバイトだけでは難しかった。そこで、思い切った行動に出る。
当時仲良くなった2人の男性に、レストランを一緒に開業しようと持ちかけた。資金は友だちや知人から借りるという考えだった。
1972年、「Yoshi’s」はオープンした。日本の家庭料理を出す店で、客席はたったの25席。それでも、よしさんにとってはビジネスオーナーとしての第一歩だった。よしさんは言う。
「勉強と仕事で寝る暇はなかった。でも毎日が嬉しくて希望に満ちていた」
アメリカではそのころ、日本食レストランは珍しかった。UCバークレーの生徒や地元の人たちがいち早く興味を持ち、たちまち繁盛した。
よしさんは、ヒッピーの象徴のような三つ編みとロングスカートをはいて客席に笑顔を振りまく「看板娘」でもあった。
5年後。店はいよいよ手狭になったため、数キロ離れたオークランドに移転した。UCバークレーの大学院も卒業し、ダンスを続けながらビジネスをさらに拡大させていった。
新しい店舗は2階に舞台が設置された。ダンス好きのよしさんのためを思って、共同経営者のカズさんとヒロさんが発案したからだが、アイデアはふくらみ、「この舞台にジャズやブルースなどのミュージシャンを呼んではどうだろう」ということになった。
和食レストランとジャズのユニークな組み合わせは話題を呼び、連日の大盛況となった。
舞台は1階へと移り、本格的なステージになった。ベイエリア中にYoshi’sの名が知られるようになった。
ところが、店は一転、危機を迎える。改装の不備をめぐって行政指導を受け、ペナルティーとして、店内でのアルコール類の販売ができなくなった。
Yoshi’sの音楽を気に入らない住人が情報提供したとされる。酒が飲めないジャズクラブでは客を引き留めることはできなかった。Yoshi’sは初めて経営破綻寸前に陥った。
しかし、よしさんはあきらめなかった。「禁酒で客が来ないなら、世界一のジャズハウスを作るべきだ」。そう判断して、優秀なブッキングエージェントを雇い、全米のトップアーティストを店に招いた。
「店をつぶすのは簡単かもしれない。でも困難に直面した時はチャンスの前触れだと発想を転換したのよ」。よしさんはそう語る。
やがて全米や海外から一流アーティストがYoshi’sに集まり、演奏するようになった。ジャンルもジャズに加え、ブルース、ポップ、R&Bと広がった。客は次第に戻ってきた。
Yoshi’sは一流のジャズクラブとしてその名を全米に知られるようになった。だが、危機は再び訪れる。
1989年、サンフランシスコを巨大地震が襲った。地元を象徴する建造物「サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ」が損傷するなど、ベイエリアは経済的にも大きな被害を受けた。
その後もオークランドで山火事が起きるなど、混乱に拍車をかけた。Yoshi’sは2度目の経営難に陥った。
そんな店のピンチを救ったのが地元の住民たちだった。店を救済するよう求め、オークランド市もそれに応えた。
オークランド市はそのころ、大規模な街再開発事業の目玉となる商業施設を探していた。その新興地区のオーシャンフロントにYoshi’sを選んだ。
店の再生にはもう一つ、難題があった。Yoshi’s の快進撃を阻止する黒人団体の反対運動だ。オークランド市は、ジャズを生み出した黒人住民の比率が全米で最も高い街の一つ。彼らは「我々の音楽文化を日本人がビジネスにして金儲けするのは許せない」と市に抗議した。
問題解決のため、よしさんは一人でこのグループと話し合った。
「経営者が日本人でもジャズへの敬愛は変わらないわ。この街でトップジャズミュージシャンが演奏すれば、あなた方の先祖が残した素晴らしいジャズ文化を地元から拡散できるという事よ。この地域がジャズで活性される未来を想像してみて」と説得を続けた。
そしてよしさんは彼らに思い切った提案をした。1年間無料の食事とジャズ観賞を約束したのだ。
問題は解決し、Yoshi’sは華々しいリニューアルオープンを果たした。倒産を免れ、約2億円の融資を調達し、全米でも類を見ない本格的なジャスシアターとして再スタートを切った。
予想外のうれしい出来事が起きた。それまで日本食に全く興味のなかった黒人の人たちが日本食を食べるようになり、ジャズ鑑賞にドレスアップをして特別な夜を楽しむ習慣が根付いた。長年荒廃していた黒人の街はみるみるおしゃれになった。
よしさんは、ボルチモア時代に誓った「アメリカ人と同等になる」ため、教養と英語力も身につけた。
Yoshi’sは2007年、経営のピークを迎える。サンフランシスコに進出し、200席を持つレストランとラウンジ、300席のライブステージを備えた壮大なスケールでYoshi’sは頂点を極めた。この頃には2拠点で音楽のジャンルも更に増え、日本のトップアーティストや津軽三味線の演奏までユニークさを極めていた。
治安が悪化していたサンフランシスコの「ジャズの街」フィルモアは再び輝きを取り戻した。近代的なマンションが建設され、ミシュランの星付きレストランなども誕生した。
Yoshi’sは約5年後、経営トラブルでここからは撤退するが、まちの発展に果たした役割は大きい。
Yoshi’sを一代で築いたよしさん。後継者について尋ねると、あっけらかんと「欲しい人にあげるわ」と言った。
「何かを残そうとは考えてないのよ。欲しい人がもらえばそれでいいの」。この清廉潔白な姿勢が公私ともに愛されるゆえんなのだろう。
新型コロナウイルスの影響でYoshi’sは昨年、閉店を余儀なくされていたが、4月下旬にようやく営業が再開した。
「世の中は常に変わっているから、変化を受け入れて楽しみを見つけるの。今やるべき事をやっているときっと先が見えてくるわ」
そんなよしさんの言葉には、戦争孤児として、移民弱者として生き抜きいた力強さとともに、どんな苦難に遭遇しても、ふわりと現実を受け入れてきたしなやかさが表れている。