国家でも市場でもないメカニズム
ブラジル最南部の中心都市、ポルトアレグレ。ドイツ系移民が多く、オレンジ色の花をつけた街路樹が、欧州風の町並みに映える。それが、郊外に向かうと徐々に道がでこぼこになり、焼け焦げた車が放置されている。そんな住宅街の一角で、20人ほどの女性たちが型紙を切ったり、ミシンを動かしたりしていた。
彼女たちはたまに冗談を飛ばし、大笑いしながらTシャツを縫っている。ちょっと音の割れたスピーカーから、映画「タイタニック」の主題歌を歌うセリーヌ・ディオンの声が響く。上司がいるでもなく、和気あいあいとした職場の雰囲気は、どこかでみた覚えがある。そうだ、新人記者時代に取材した、ママさんバレーチームのようなノリだ。
「ウニベンス」というこの組織、一見普通の縫製工場だが、実は会社ではなく、株主も社長もいない。働き手たちが自ら経営もする協同組合なのだ。組合員はみな、近所に住む女性たち。ミシンでTシャツを縫っていたオザナ・オリヴェイラ(48)はここで働いて9年になる。数分かけて1枚仕上げるごとに、1・5レアル(約50円)を得る。「何事もみんなで相談して決めます。時間の自由もきくし、自分のできる範囲で仕事ができる。ずっとここで働きたい」
話を聞いているうち、昼前だというのにみな帰り支度を始めた。11時にいったん工場を閉め、それぞれ家に帰って昼食を取る。作業開始は2時間後だ。
リーダー役のネルザ・ファビアン・ネスポロ(53)がウニベンスを始めたのは約20年前。働いていた食品工場から解雇され、自宅で服を縫って生活費の足しにしていた。似た境遇の人たちと一緒に仕事をしようと組合を作った。丁寧な仕事ぶりが評判になり、コンスタントに注文が入るようになった。
作業ごとの工賃は、全員で話し合って決める。組合員たちは月に1000~2000レアル(3万5000~7万円)ほどの給料を得る。のこった「利益」は、新しい機械を買ったり非常時の蓄えにしたり。「同じコミュニティーの人たちだから意見がまとまりやすい。仲間を増やしたとしても、せいぜい30人ね」とネスポロは言った。
連帯経済は、国家でも市場でもない、コミュニティーに基づく経済だという。それがもっとも盛んだと聞いてブラジルまで来た。しかし、一つひとつが小さいままでは経済の仕組みを変えられないのでは。そうネスポロに問うと、「互いにつながることで、網の目のように広げていこうと思います」と言い、隣の建物を案内してくれた。
そこには、自然な風合いの生地のTシャツやワンピースが山積みになっていた。「ジュスタ・トラマ」というブランド。それが彼女らの連帯経済の軸になっていた。Tシャツなら1枚40レアル(約1400円)ほどの値札がついている。
オーガニック素材を売りにして、農場で有機綿を栽培するところから、糸や布の生産、縫製、販売まですべてを連帯経済の組織が担う。ウニベンスなど6組織の計600人が携わるという。なかなかの規模だ。
フランスの高級スニーカーメーカーが注目
原料をつくる綿農家に会いに、ブラジル北東部セアラ州にあるタウア村に向かった。
州都フォルタレザから高速道路を約350キロ。サボテンが自生する荒野を車窓から眺めていて、妙なことに気づいた。時速約100キロで走る車のすぐそばで手を振る人が、数百メートルごとにいるのだ。「農家の物乞いですよ」とドライバー。干ばつがひどく、農業収入が足りないのだという。途中、この地で半年ぶりの雨が降った。
タウア村一帯の約70軒の綿農家でつくる生産者協会「ADEC」を訪ねた。リーダーのフランシスコ・シルバ(84)は自分の子供11人を農業の収入で育て上げた。「この辺はみんな綿を植えてきたが、虫にやられたり、雨が降らなかったりで、助け合わないとやっていけない」。せっかく野菜や綿ができても、地主や仲買人に安く買いたたかれてしまいがちだ。協会は農薬を使わない有機綿の栽培法を農家にアドバイスし、綿を買い取り、それをまとめて売っている。
有機栽培を徹底させることで、ジュスタ・トラマと、フランスの高級スニーカーメーカー「Veja(ヴェジャ)」の二つが綿を高く買ってくれている。おかげで、以前の倍の代金を農家に払うことができるようになったという。
10年前から協会に加わる綿農家のジョゼ・リノ・デ・ソウザ(59)は、「先祖からの土地を汚さないよう、土作りにはこだわっている」と言う。自分の綿が、品質検査で一度もはじかれたことがないのが自慢らしい。協会に入る前は地元の会社に綿を売っていたが、値段はおろか、買ってくれるかどうかすら収穫後にしか分からず、作った分が丸損になったこともあった。協会はジュスタ・トラマやVejaと毎年、栽培を始める前に買い取り価格を決めている。「安心して綿の栽培に専念できる」とソウザ。記念にもらったというVejaのスニーカーは、戸棚に大事にしまってあった。
ちょうどVejaの創業者、フランソワ・モリヨン(38)がパリから年1度の価格交渉にやってきていた。彼が履く真っ白い革のスニーカー、どうにもオシャレだ。1足買いたいと頼んだのだが、残念ながら未発売のモデルだという。
このブランド、「V」のマークでファッション愛好家に知られ、日本でも一部セレクトショップが扱っている。綿、ゴム、革とどれもブラジルの自然素材を使い、工場もブラジルにある。
綿農家とのミーティングで、モリヨンが説明に立ち上がった。「Vejaは去年より7割も売り上げが伸びました。次はもっと高い値段で綿を買うので、ぜひ生産量を増やしてほしい。皆さんの仕事の成果を、パリ、ニューヨーク、東京と世界に広げていきます」。新しく売り出すモデルの名前は、日本語の綿にちなんで「WATA」だと明かした。
モリヨンはビジネススクールを出て、ニューヨークの投資銀行で働いたこともあった。だが、「同僚の会話といえば、最高のワインが手に入ったとか。退屈な人生に見えた」。幼なじみの同級生とともにVejaを始めた。目指したのは「ナイキとは別のスニーカー」。既存のスニーカーはグローバル資本主義のシンボルに思えた。素材をできるだけ安く買い、人件費が安く環境規制も緩い国で生産する。その一方で、有名アスリートを使った宣伝でイメージを高め、売価を上げる。スニーカーの値段の7割はマーケティング費なんだよ、とモリヨンは言う。
Veja自体は株式会社だが、連帯経済とのつながりでブランドイメージを良くし、生産コストはかかるが既存メーカーよりも1割ほど高い値段で靴を売ってもうけを確保する。なかなかしたたかな戦略だ。モリヨンは「資本主義と連帯経済とをつなぐ懸け橋になることで、かかわる人がみな適正な対価を手にできる、いまよりマシでクリーンな経済を実現したいのです」と話した。
驚いたのは、一人の農家がモリヨンに「綿だけでなく、豆なども固定価格で買ってくれないか」と尋ねたことだ。さすがに彼は断っていたが、農家に依存心が芽生えていないか、少し気になった。
冷戦が終わりグローバル化が加速した1990年代以降、主に中南米・南欧で広がった協同組合や協会(アソシエーション)、地域銀行、非公式なグループなどでの実践が、のちに「連帯経済」という名でくくられるようになった。
ラテン諸国では政府も後押しする。ブラジルは2003年、連邦政府に「連帯経済局」をもうけた。メキシコやスペイン、フランスなどでも、連帯経済への公的な支援などを定めた法律がある。
ブラジルにあるウニシノス大学教授のルイス・イナシオ・ガイゲルは、同国での連帯経済の源流は三つある、という。一つは、地方の農業共同体。二つ目は、大都市周辺部の貧困層が生き残るために助け合ってきた歴史。三つ目は、働き手が自力で組合をつくり、いったんは倒産した工場や企業を運営してきた経験。記事で紹介したジュスタ・トラマに加わる組織は、これら三つのどれかが背景にある。
14年の調査によると、連帯経済を担う組織がブラジルには約2万あり、計140万人以上が働いているという。ただ、4割は20人以下の小さな組織だ。売り上げをみると3分の1の組織は年に1000レアル(3万5000円)もない。
経済が成熟し、財政赤字を出しつつも国が最低限の暮らしを支えている日本では、そもそも連帯しないと生きていけないような局面は目立たない。ただ、貧困や格差が広がり続ければ、新たな経済の仕組みを求める機運が高まっていくだろう。
「原点」忘れて自壊の例も
ジュスタ・トラマを軸につながる連帯経済の組織すべてがうまく回っているのだろうか。
有機綿から糸や布地をつくる工程を受け持つ工場がブラジル南東部の田舎町パラ・デ・ミナスにある。「コーペルテスチル」という名で、「繊維組合」というほどの意味だ。
町工場ぐらいの規模かと想像していたが、現地に近付くと、そこには建屋が何棟も立ち並ぶ本格的な工場が見えてきた。普通の工場と違うのは、ここが「回復工場」と呼ばれている点だ。経営に失敗した株式会社の工場を、働き手でつくる協同組合が引き継いで操業しているのだ。
こうした「回復工場」「回復企業」は、連帯経済の大きな柱で、ブラジル国内だけでこれまで200近くできたという。私は興味津々だった。以前、日本でも似た試みを取材したことがあったからだ。廃業が決まった東京・品川駅前の「京品ホテル」を、解雇された働き手が再建しようとした2008年秋からの騒動だ。
米証券大手リーマン・ブラザーズ破綻の直後、運営会社が従業員全員を解雇し廃業したが、一部の元従業員がホテルに立てこもって客室や居酒屋を「自主営業」していた。結局、裁判所が立ち退きを命じた。よく晴れた日曜日の早朝、怒号と悲鳴のなか、ホテルの前でスクラムを組んだ約200人を、裁判所の執行官が次々と引きはがして建物内へと突入していった。それは時代劇の落城シーンのようだった。
プロが失敗したビジネスを、本当に労働者が復活させられるのか。アルゼンチンでは、いったんは閉まったホテルを従業員が立て直したケースもある。ブラジルでの「回復工場」の成功例を、この目で見てみたかった。
だが、巨大な建屋の中にあったのは、何百もの機械がほこりをかぶっている姿だった。会長のフランシスコ・アシス・ペレイラ(63)は「企業との競争に負けました」。糸と布をつくる工程は止まり、布に模様をプリントする部門だけが動く。
1990年代末、前の会社が財務に問題を抱えて倒産しそうになり、働き手たちは協同組合をつくって仕事を引き継いだ。約400人いた従業員の半分が組合に残った。会社は解雇に必要な解決金を従業員に払えず、代わりに、土地や建屋を組合が引き続き使うことを認めた。
工場でつくる布の品質自体の評価は高く、最初はもうかった。組合員に給料を払っても、年に100万レアル(3500万円)ほど利益が残った。
問題はここからだった。協同組合は組合員の話し合いですべて決めなければならない。「産まれた卵を食べてしまえばそれっきり。いまは我慢して、卵を産む鶏を育てよう」。当時会長だったジュリオ・ジョゼ・モライス(70)は、残った利益で生産効率のよい新型の機械を買おうと提案した。連日、真夜中までミーティングを開いて説得したが、組合員の総意は利益の「山分け」だった。
だが、機械が古くなるにつれて競争力は落ち、ライバル企業の半分ほどの生産性しかなくなった。昨春、売り上げは半減し、組合員は3分の1に減った。
株式会社時代から30年以上、ここで働くフェルナンド・アントニオ・フェヘイラ(55)は、組合が経営を引き継いでから、自分自身のために働いている実感があったという。働いて利益を上げれば、全額自分たちに返ってくる。月2000レアルを超す給料で、子供2人を大学に通わせた。多少経営が傾いても、組合なら簡単にクビにされることはない、と安心もしていた。しかし、「お客を失えば結局危うくなるのは、組合も会社も同じだった」と話す。
さらに、規模を拡大したあげく自壊した前例もある。
日系移民が中心になってつくった南米最大の協同組合「コチア産業組合」。1927年、サンパウロ郊外のコチア村でできたこの組合は、ジャガイモの生産農家たちが、一緒にイモを市場まで運び、安く買いたたこうとする仲買人に対抗するのが狙いだった。70年代以降は肥料工場や紡績工場、病院・学校経営、果ては、ブラジルの中央高原「セラード」の農地開拓にも乗り出した。経営が行き詰まって94年に解散したとき、組合員は1万8000人にのぼったという。
ブラジル農務省で大臣補佐官などを歴任したイシドロ・ヤマナカ(81)は、父親がコチア組合の支店長を務め、自身も農大を出てしばらく組合で働いた。90年代に組合の経営問題が表面化し、請われて解散処理に携わった。そこで見たのは、約7億ドル(当時のレートで約800億円)もの負債を抱える一方、一部幹部がスイスの口座に組合のお金を隠すなど腐敗した組織だった。
ヤマナカは言う。「資本主義とも社会主義とも違う原理で動く協同組合が、資本主義と同じ土俵で戦おうとして肥大化した。協同組合は、原点を忘れると自滅する」
見えてきた「資本主義のしぶとさ」
「トランプの米国」が象徴するように、世界では国家が市場から主役の座を取り戻そうとしているかにみえる。しかし、社会主義も福祉国家も壁にぶち当たり、国家だってさんざん失敗してきたはずだ。では、連帯経済はグローバル資本主義の「オルタナティブ」(対案)になり得るのか。
かなり厳しい評価もある。マルクス主義の立場から疑問を投げかけるのはリオ・グランデ・ド・ノルテ大学教授のエンヒッケ・ウェーレン(38)だ。連帯経済の働き手の多くは低賃金で、労働時間や安全衛生などの法的な保護に欠けており、「労働者がせっかく確立してきた権利を後退させ、むしろ資本家の利益につながっている」とみる。綿農家とVejaの例もあるから全部がダメというわけでもないだろう。ただ、資本主義を乗り越える試みのはずが、その強化につながっているとすれば皮肉な話だ。
連帯経済に詳しい社会哲学の専門家である中野佳裕(39)は、連帯経済が弱者救済を目的としたNPOと違うのは、「経済の仕組み自体をより民主的で持続可能なものにつくり変えようとしている点だ」と指摘する。
しかし、実際にブラジルを旅して感じたのは、「みんなの経済」が持つ可能性よりむしろ、その前に立ちふさがるグローバル資本主義の強大さ、しぶとさの方だった。
連帯経済は、そこからはじかれた人の「安全網」としては、確かに機能していた。だが、実際にその仕組みの中で働く人たちから、同じような言葉を聞いた。「もっといい給料をくれるなら、組合でも会社でもなんでもいい」。リーダーたちの理想は高いものの、現場の働き手たちにとって切実なのは、今日明日を食っていけるかどうかなのだ。そこから、社会全体を巻き込んで経済のありようを変えていくまでの道筋は、まだ見通せない気がした。
そんな疑問を、ブラジルに来ていたフランスの社会経済学者、ジャン=ルイ・ラヴィル(62)にぶつけた。彼は90年代、世界に先駆けて連帯経済の概念を提唱したこの分野の第一人者だ。
多くの人々の「ブエン・ビビール」(良き暮らし、という意味のスペイン語)を実現するためには、市場とも国家とも異なる原理を、経済に埋め込んでいくことが欠かせない、と彼は言った。存在は小さくとも、それを具体化したのが連帯経済なのだと。
「ブエン・ビビール」は南米先住民の言葉に由来する考え方で、環境と調和して精神的に豊かに暮らすことを指す。08年に南米エクアドルの憲法に記され、資本主義的な「豊かさ」を相対化する理念として、南米・南欧問わずよく使われるようになった。
ラヴィルは静かに言葉を継いだ。「ブラジルでの数々の試みが示しているのは、コミュニティーによる連帯が、単なる理論やユートピアではなくて、風景のなかに実在しているということです。国家や市場だけではない、多元的な経済が姿を見せ始めたことに、もっと私たちは注意を向けるべきなのです」
たしかに、いまの資本主義だって確立までに200年以上を要した。人類が「次」の経済の姿を見いだすまで、あと何世代かかるかわからない。そこにブエン・ビビールや連帯の精神がどれほど息づくのか。よほど長生きしないと見届けられそうにないのが、残念ではある。
地域通貨の挑戦
経済の血液ともいえる「お金」にも、連帯経済の波は及んでいる。
セアラ州都のフォルタレザは1970年代から、政府の肝いりでリゾート開発が進み、海岸沿いに大型ホテルが並ぶ。そのあおりで、漁民たちが内陸のパルメイラス地区に追いやられた。彼らが生き残るために生みだされたのが、地域通貨「パルマ」だ。
1パルマは1レアルと交換できる。発行するのは地域銀行「パルマス銀行」。約20年前に銀行を立ち上げたジョアン・ジョアキン・メロ(54)は、小中学校の教師をしていた。彼が銀行をつくったのは、そのころ「仕事がない」と家を売って出ていく人が増えていたからだ。メロたちが人々の消費行動をくわしく調べると、日用品の8割をほかの地域の大型チェーンなどで買い、住民のお金が流出していた。地域銀行は、お金を地域の中で回そうとする試みだった。
伝説の裁判がある。パルマス銀行は2000年にパルマでの融資を始めた。借り手の企業は仕入れ代や従業員への給料の一部をパルマで支払うようになった。地域の中でパルマがぐるぐると回り始めた。ところが、「インチキなお金を発行している」と、ブラジルの中央銀行がメロたちを訴えてきたのだ。
メロは、パルマはもうけが目的ではなく、通貨レアルの裏付けもあることを主張。人々の金融アクセス権を定めた憲法まで持ち出し、05年に裁判に粘り勝ちした。「スラムの住人が国を負かした」と話題になり、メロのもとには大手銀行から融資の申し込みが舞い込んだ。ブラジル中に同じような地域銀行ができ、その数は110を超えて今も増える。
パルマス銀行はNPOやほかの銀行から借りたレアルを元手にして、レアルとパルマの両方を、消費者や生産者に低金利で貸し付けている。もともとは紙のパルマを発行していたが、スマホの普及で電子化した。約5000世帯のこの地域で2600人がパルマを使う。パルメイラスの人々が地域内で日用品を買う割合は、97年の20%から11年には93%に増えた。
日本では00年代に地域通貨ブームが起きたが、しぼんでしまった。ただ、コミュニティーの結束が試されるようなときに、力を発揮することもある。たとえば、東日本大震災で被災した岩手県宮古市の地域通貨「リアス」。震災直後、商店街は物資を求める被災者でにぎわったが、支援物資が届き始めると売り上げは激減した。商店街は、被災者が自由に商品を選べて自分たちも潤う仕組みを作ろうと「リアス」を発行した。
これまでに計4000万円分以上が発行された。精肉店を営む吉田政頼(72)も客からよく受け取る。「小さい試みだが、一つひとつが、コミュニティーの結束を深めていくんだと思います」。ただ、受け取った商店はリアスをすぐに換金してしまう。前商店街理事長で旗振り役の佐香英一(64)は「地域で回していく方法を考えたい」と話す。