2022年1月4日、オハイオ州シンシナティの朝の気温は零下だったが、空は澄み渡っていた。
家族に囲まれ、第70代の市長としての就任式に臨んだアフタブ・ピュレバル(39)も笑顔があふれていた。父親はインド、母親はチベットの出身のピュレバルは、シンシナティで初めてのアジア系市長だ。
「インドで育った父と、チベットからの難民だった母が、すべてを捨て、(アメリカで)より良い生活を探すという決断をした時、まだ大人になったばかりだった。私はよく、両親の話をする。なぜなら、それは私の根本に関わり、我が国の中心的なことでもあるからだ」
「1世代で、私たち家族は難民から、シンシナティ市長へと変わった」
就任演説でピュレバルは、アジアのルーツに触れつつ、アメリカへの信念を何度も口にした。
ピュレバルは高校生の時、地元紙の記事で「将来の夢は大統領」と語る様子が紹介されたほど、若いころから政治に関心があった。しかし、シンシナティは約30万人の人口のうち、アジア系の割合が約2%。ピュレバルも、地元メディアの取材に「一番よく受けた質問は『アフタブって何?』だった」と話している。
だが、珍しい名前を逆手に取った。保険会社の「アフラック」に似たところを利用し、選挙広告では「アフタブ!」と話す黄色いアヒルを登場させてアピールした。16年に郡裁判所の責任者に当選し、21年には市長選を制した。今では全米でも民主党の若手ホープの一人となっている。
就任式の後の会見で、ピュレバルは初のアジア系市長になった感想を聞かれ、こう答えた。「シンシナティだけでなく、アメリカ中西部(の主要都市)で初めてのアジア系市長になったことは非常に誇りだ。この国のどこでもアジア系が当選し、リーダーとなれることを示した」
21年公表の調査によると、アジア・太平洋系はアメリカの人口の約6%を占めるが、投票で選ばれる公職者の中には1%程度しかいない。しかし、20年11月には、母親がインドからの移民だったカマラ・ハリス(57)が史上初めて、アジア系として副大統領に当選した。21年11月にはピュレバルのほか、マサチューセッツ州ボストンで台湾系のミシェル・ウー(37)、ワシントン州シアトルで日系のブルース・ハレル(63)がそれぞれ、市長に当選した。
東海岸の主要都市で初のアジア系市長となったウーは、ピュレバルと同じく、両親が移住した後にアメリカで生まれた。シカゴで育ち、「政治に関心がなかった」という。転機となったのは、大学を卒業した直後に、母親が精神疾患を患ったことだった。メディアへの寄稿では母親の介護をしつつ、妹を育てる経験を通じて「いかに行政が大切で、助けを求めている時に断絶があるか」を実感したと振り返っている。13年にボストン市議に当選し、4期を経てから市長選に出た。
ピュレバルやウーの当選で、21年秋の選挙はアメリカでも「アジア系の躍進」と伝えられた。過去のアジア系の政治家の多くは、カリフォルニア州やハワイ州など、アジア系の人口が多い地域から選ばれてきたが、そうでない場所での当選も注目を集めた。
ただ、存在感が高まっているのは政治だけではない。
21年公開の「シャン・チー/テン・リングスの伝説」は、マーベル・スタジオ(ディズニー傘下の映画制作スタジオ)のスーパーヒーロー映画として、初めてアジア系が主役となった。キャラクターたちが中国語を話す場面も、いくつも挿入されている。
主演をしたシム・リウは中国で生まれ、5歳のときに両親と一緒にカナダへ移住した。役者としてまだ無名だった14年にツイッターに投稿した「マーベル、キャプテン・アメリカとマイティ・ソーは素晴らしい仕事だった。次は、アジアン・アメリカンのヒーローでどう?」という問いかけを、自ら実現させた。
子ども番組「セサミストリート」も21年11月に放送した特別番組で、初めてとなるアジア系のマペット「ジヨン」が登場した。コリア系の女の子の設定で、エレキギターを弾くのが趣味だ。
セサミストリートに長年出演している日系のアラン・ムラオカは発表の際、「子どもたちが画面や物語で、自分と似ている人を見ることの影響は大きい。自分たちが何者で、どのような人になりたいのかを考えるにあたって、支えとなる」とコメントした。
特別番組では、ジヨンが他の子どもから「(元いた場所に)帰れ」と言われ、悩む様子も描かれる。それに対し、シム・リウや、テニス選手の大坂なおみらアジア系の著名人が励ましの言葉を贈り、「ここに居場所がある」と伝える。アジア系の子どもの悩みを意識した内容だ。
カリフォルニア大学リバーサイド校教授で、アジアン・アメリカンの動向などを研究しているカルティク・ラマクリシュナンは、存在感が高まっている要因として二つの動きを挙げる。
まずは、移民がアメリカに到着してからの年月だ。アジアからアメリカへの移民が本格化したのは、この半世紀ほどだ。「1980年代や90年代に生まれた移民2世が大人になり、社会の中で動いている」とラマクリシュナンは話す。もう一つは、国内の人種問題の再燃だという。「以前は黒人やヒスパニックよりも、白人に共感するアジア系が多かったが、ブラック・ライブズ・マターの運動や新型コロナに伴う差別で、変化が生まれている。公職に関心を示すアジア系が増えているのも、その結果ではないか」
■地下鉄で顔を切られた
アジア系を取り巻く差別も多い。21年2月3日の朝、ノエル・クインタナ(62)はいつものように、ニューヨーク・マンハッタンの勤務先に向かうため、地下鉄に乗っていた。
フィリピンで生まれ育ったクインタナは07年にアメリカに移住した。スターバックスで長く働き、現在は障害者を支援するNPOと、移民の相談に乗るセンターの2カ所に勤務する。フィリピンで会計士として働いていた時と比べて、収入は減ったが、アメリカの生活は好きだ。「40歳を過ぎてからアメリカに来ても、機会がある。将来が見えてしまうフィリピンと違う」
新型コロナの感染が拡大してから、ニューヨークの地下鉄は乗車率が下がった。しかし、クインタナの自宅があるブルックリンからマンハッタンへ行くためには、地下鉄かバスに乗らなければならない。この日も座れないほど乗客がいた。ドアの近くに立っていると、乗り込んできた男がクインタナのカバンを蹴った。「邪魔かな」と思ってカバンを動かすと、再び蹴られた。「何が問題?」と問いかけると、男が近づいてきた。
殴られるかと覚悟したが、痛みは感じなかった。周りの乗客の反応で初めて、顔から血が流れていることに気づいた。 男はカッターナイフで、クインタナの顔を端から端まで切り裂いたのだ。
次の駅で降りた男は走ることもなく、歩いて去っていった。クインタナも駅員に助けを求め、救急車で搬送された。病院では治療のため、顔を100針以上縫った。男は警察に逮捕されたが、動機は今でもはっきりしない。無言でクインタナを切りつけたため、ヘイトクライム(憎悪犯罪)として訴追されなかった。しかし、クインタナの頭からは、「アジア系だから狙われたのではないか」という思いが消えない。
事件以来、用心深くなった。道を歩いていても、周囲をいつも気にしてしまう。地下鉄にも乗っていない。
アジア系が被害者となるヘイトクライムは以前からあったが、パンデミックを機に一気に注目されるようになった。ニューヨーク市警は21年12月、市内でアジア系が被害にあったヘイトクライムが前年の28件から129件に増えたと報告した。サンフランシスコでも20年には9件だったのが、21年には60件に増えた。
警察に摘発される事件は、氷山の一角とみられる。アジア系へのヘイトクライムの増加を受けて結成された「STOP AAPI HATE」の集計では、20年3月から21年9月までの間に、アジア系と太平洋系が被害に遭った事件は計1万370件にのぼった。最も多いのは「ハラスメント」(66.8%)で、「避けられる・無視」(16.3%)、「身体的な襲撃」(16.1%)が続いた。
ニューヨークで活動するアジアン・アメリカン連合会会長のジョアン・ユーは「被害を報告をするのは10%から30%程度で、実際はもっと多い」と話す。「高齢者を中心に、怖くて外に出たくない人が増えている」。ユーは、大統領(当時)のトランプのコロナ対応が拍車をかけたとみる。「彼が『中国ウイルス』と発言するたび、私たちの背中に標的をつけているようだった。パンデミックで社会に渦巻いていた不満や怒りがはけ口を求めるなか、大統領がアジア系にその怒りを向けていいと許可を与えた」
トランプの影響は分からないが、アジア系への(ひぼう)中傷が公然と語られることは事実だ。 ボストン市長のミシェル・ウーが昨年12月、飲食店などを利用する条件として新型コロナのワクチン接種を義務づける方針を発表すると、ネットではウーの名前(Wu)と、ウイルスが最初に確認された武漢(Wuhan)をもじって「Mayor Wuhan(武漢市長)」との書き込みが相次ぎ、「明らかに中国を利している」という投稿もあった。市役所前の抗議デモ参加者は「USA」を連呼した。
ただ、アジア系が受けている被害に注目が集まることで、プラスにつながるという期待もある。
フィリピン出身のヴィルマ・カリ(66)は21年3月29日、教会に向かおうと、ニューヨーク市内を歩いていたところ、見ず知らずの男が叫んでいるのが聞こえた。「ここにおまえの居場所はない、このアジアン」
自らの母親を殺して服役し、仮出獄していた男はカリを蹴飛ばし、何度も踏みつけた。骨盤を骨折したカリは、娘のエリザベス・カリ(33)を通じて取材に応じ、「あまりにも出来事が早く、『なぜ、私にこんなことをしているの』としか考える余裕がなかった」と振り返る。
襲撃の様子は近くの監視カメラがとらえていた。ドアマンがカリを助けようともしなかったことと合わせ、全米に波紋を広げた。エリザベスは「多くの人から『被害に遭ったのは私の母親だったかもしれない』というメッセージを受けた。同じような体験をし、共有したい人があまりにもたくさんいることに気づいた」と話す。
ヴィルマとエリザベスは事件を機に「AAP(I belong)」というサイトを立ち上げ、ヘイト被害に遭ったアジア系が体験を共有できるようにした。「AAPI(アジアン・アメリカンと太平洋系)」と「I belong(私はここに居場所がある)」をかけ合わせたタイトルは、「ここにおまえの居場所はない」と叫んだ襲撃者への反論でもあった。
サイトには様々な経験談が寄せられる。小学生のころ弁当に母親がキムチを入れたことで馬鹿にされ、怒りを母に向けた人、有権者登録をしようとし、「市民しか投票できない」と言われた人、見た目がアジア系と異なるので逆にコミュニティーから受け入れられない人……。エリザベスは「事件に注目が集まったのは残念だが、幸運でもあった。母を単に襲撃事件の被害者としてみるのではなく、事件を機に生まれた感情を理解してもらい、社会の不正義について考えるきっかけになることを願っている」と話す。
■「アジアン」とは誰なのか
アジア系の移民がアメリカで増えるきっかけとなったのは、1965年の法改正だ。移民の受け入れ人数を出身国ごとに分け、実質的に欧州出身者に限定していた移民法が改正され、アジアからの移民に門戸が開かれた。
「アジアン・アメリカン」という言葉が初めて一般に使われたのも同じころだ。68年にカリフォルニア大学バークリー校の学生が「アジアン・アメリカン・ポリティカル・アライアンス(AAPA)」という団体を結成したときだ。
それまで、アジアからアメリカへの移民は「オリエンタル(東洋系)」と呼ばれたり、出身国ごとに分けられたりしていた。これに対し、AAPAは「アジアン」としてまとまることで、存在感を高めようとした。当時盛り上がっていた、ベトナム戦争への反対や、黒人の地位向上を掲げる運動の影響もあった。言ってみれば、最初から政治的な色彩が強い言葉だった。
それから半世紀以上が経ち、アジア系の人口は加速度的に増えている。2020年の国勢調査によると、アメリカの総人口約3億3000万人のうち、「アジア系」または「アジア系と他の人種の組み合わせ」と答えた人は約2400万人。2000年の約1190万人の2倍以上で、最も増加率が高いグループだった。
アジア系の多様化も進む。以前は中国や日本など、東アジアにルーツを持つ人が大半だったが、最近はベトナムなどの東南アジア、インドなどの南アジアからの移民も増えている。カリフォルニア大学リバーサイド校教授のラマクリシュナンは「数え方によっては、インド系が中国系を抜いて最大の集団になっている。どういう人を『アジアン』ととらえるのか、概念も変わっている」と話す。
一方、これだけ多様な人たちを「アジアン・アメリカン」とくくっていいのか、疑問も生じている。出身国によって、学歴や経済状況が大きく異なるという問題もある。
ワシントン州の弁護士、メーソン・ジー(28)は大学生だった15年、ホワイトハウスの「アジア・太平洋系若手大使」の一人に選ばれた。当時のオバマ政権がアジア系へのアプローチの一環として行ったプログラムで、さまざまなコミュニティーを訪れ、生活を取り巻く課題について聞き取るのが仕事だった。
とくに印象に残っているのは、テキサス州オースティンだったという。「NASA(米航空宇宙局)のエンジニアもいれば、地元のネイルサロンで働く低収入の人もいた。同じアジア系の中で、生活水準も言葉もいかに違うのか、実感した」
他の場所を訪れても、アジア系の中の違いが目立った。「アジアン・アメリカンが共通のアイデンティティーを持つことは非常に難しい。また、それぞれのグループがお互いを助けることも比較的少ない。アジア系が政治で十分に代表されていないのは、こうしたまとまりに欠けることも影響している」と感じた。
ただ、ジーは「アジアンとして共通項がある」という結論に至った。「私たちの肌の色だ。どんなに他の人種に溶け込もうとしても、黄色の肌は変わらない。それは恥ずべきことではなく、誇りにすべきだ。アジア系であるということを受け入れることで、私たちは強くなる」
ロースクールを修了後、地元に帰ったジーは現在、アジア系の若者が社会活動に取り組むことを促すNPOを運営し、地方選挙の候補者も支援している。
■「白人か否か」の先へ
21年、「Crying in H Mart」という本がアメリカでベストセラーになった。母がコリア系、父が白人のミシェル・ザウナー(32)の自伝だ。
著作の中で、ザウナーはがんを患った母の闘病や死去、そして自身がコリアの料理や食材に触れることを通じ、アイデンティティーを考える。「H Mart」はアメリカ各地に店舗がある、コリア系スーパーの名前だ。
読みながら、驚いた。
ザウナーがオレゴン州ユージーンという町で育っていたためだ。私も、幼少期を同じ町で過ごした。現在の人口は17万人あまりで、アジア系は5%ほど。私が住んでいた1970年代は、アジア系がもっと少なかった。
ザウナーは著作で、中学生のころ同級生から「あなたは中国人? 日本人?」と問われ、首を横に振って否定すると「じゃあ、何?」という質問が続いた経験を振り返っている。「12歳の私にとって、最も聞かれたくないことだった。私が認識されず、そこに居場所がないことが明らかになったためだ。それまで、コリア系であることが誇りだったが、決定的な特徴になることをおそれ、消すようにした」
周囲に、自分と重なる人がいない。同じような思いは、私も記憶に残る。
親の仕事の都合で、私は8歳のときにユージーンを離れ、日本へ引っ越した。しかし、思春期もそこで過ごしていたら、ザウナーと同じように、アジア系としてのアイデンティティーを否定したくなったのではないか。そういう思いが頭から離れない。
周りに似た人が少ないと、人は自信を持ちにくい。アメリカに限らず、日本や世界のどこでも同じだ。アジア系がアメリカで「永遠の外国人」となるのも、それが原因の一つだ。しかし、私が子どものころと比べ、アメリカは変わっている。アジア系が社会の中心におり、テレビ画面にも登場する。アジア系の子どもが自分を重ねられる人は増えている。
この影響は、アジア系が自分たちのことをどう考えるのかにとどまらない。
アメリカは建国当時から人種が「白人か黒人か」という二項対立で成り立ち、常に白人が優位だった。アジア系も、この構図の中で捉えられてきた。20世紀初頭には、アジア出身者が「自分たちは白人として扱われるべきだ」という訴訟を複数起こしていた。最近も、アジア系が白人に近いのか、「有色」側なのか、という議論が続く。
確かに、「白人か否か」はアメリカ社会において重要だ。だが、人種という多様な存在を、その二項対立で考えることに、そもそも無理がある。アジア系の存在感の高まりは、最終的に「白人か否か」の構図を崩し、それぞれの人や集団の個性を認める方向に導くのではないか。それが実現すれば、アジア系は「永遠の外国人」でなくなり、アメリカ社会もよりフェアになるはずだ。アジアン・アメリカンの一人としても、そう願う。(文中敬称略)