スイスの博物館で時計の歴史をつなぐ 修復師・金澤真樹さん
スイス北西部のラ・ショー・ド・フォン。17世紀から時計産業の歴史を持ち、世界遺産にも登録されている。街の中心地にある国際時計博物館は、世界最大級の時計コレクションを誇る。その収蔵品を修復し、来館者に時計の歴史を伝える職人がいる。栃木県出身の金澤真樹さん(44)だ。博物館専属の修復師は2人だけ。数百年の時を経た精密機械に命を吹き込み続けている。
時計との「出会い」は高校2年のころ。進路に悩んでいたときに偶然目にしたテレビ番組がきっかけだった。スイスの工房を訪ね、熟練の職人が一つの時計を何年もかけて仕上げる姿を追ったドキュメンタリー。「気の遠くなるような時間をかけて時計を作る職人を見て、これは面白いと思った」
特別に時計が好きだったわけではない。だが工業高校で学んでいた機械への関心と、「手作業で何かを生み出す」という伝統的な営みが結びつき、直感的に「これだ」と感じたという。
「大学に行きたい気持ちもなければ、就職して働きたい職場もなかった。時計なら、工業と手作業が融合していて、自分にもできそうだと思った」。当時は現在のようにインターネットで何でも調べられる時代ではなく、情報は乏しかった。「とにかく時計学校に入れば職人になれるだろう」と、田舎の高校生らしい素朴な思い込みで進路を決めた。意外にも、父の反応は「いいんじゃないか」。東京で専門学校に通って一人暮らしをすることと、本場のスイスに行くのとではそれほど大差ないだろう、とも言われた。
1999年、まずフランスへ渡った。時計を学ぶ前に、言葉を身につける必要があったからだ。大学付属の語学学校や講座でフランス語とフランス文化を勉強した。当時のフランスは学費が安く、質の高い教育を受けられる環境が整っていた。「幸い(費用は)親に出してもらえた。勉強嫌いだった自分が、初めて勉強を面白いと思えたのはこのときです」。午前に習った文法を午後の生活で試す。失敗しても翌日修正できる。その繰り返しが新鮮だった。「日本の勉強はテストのためのものだった。でも語学は学んだ瞬間から使える。こんなに楽しいものなんだと知った」
2001年、念願のスイスに渡り、ル・ロックルの時計学校に入学した。基礎課程を経て、年に数人しか入れない修復・複雑時計科へ進んだ。ここで高度な技術を習得し、26歳で卒業した。
最初のキャリアは、国際時計博物館での半年間の研修だった。ちょうど大がかりな天文時計の修復作業中で、欠損部品の製作やレバー調整、最終的な設置作業までアシスタント的な立場で手を動かした。「数年がかりのプロジェクトに関わることができた。個人のアトリエでは到底請け負えない規模の修復に触れ、修復という仕事のスケールや面白さを知った」
その後、独立系時計ブランドのヴィンセント・ベラールに就職したが、親会社がブランド閉鎖を決めてブランドそのものが消滅。「せっかく製品が世に出始めた矢先の出来事だった。業界では珍しくない話だが、若い自分には衝撃だった」と振り返る。
突然宙に浮いたキャリア。しかし身の振り方を考えていたとき、博物館とプライベートバンクが共催し、優秀な時計師を支援する「ジュリアス・ベア賞」を受けることに。課題は1900年代初頭のグラン・ソヌリ(正時だけでなく15分ごとにも音が鳴る、時報機能付き時計)の修復。設計図も資料もない中、10カ月を費やして欠損部品などを割り出し、自作した。「どうやったら正常に動作するのか、何度も仮組みと分解を繰り返し、ようやく復元できたのです」。この経験が修復師としての自信につながった。
このプロジェクトによって金澤さんの名は業界に知られることになり、独立時計師の大御所カリ・ヴティライネンの工房に就職することができた。ただ、子どもが生まれた直後で、家庭との両立に苦しんだという。「通勤も長く、残業も多かった。職人としては成長できたが、父親としても夫としても中途半端になってしまうのではと悩んだ」
ちょうどその頃、博物館の先代修復師が定年退職。後任を探していた館から声がかかり、2013年に現職に就くことに。博物館はラ・ショード・フォンの自治体が運営している。
つまり、金澤さんは時計修復師でもあり、公務員でもある。博物館では研修生の指導、一般客へのデモンストレーション、子ども向けワークショップの参加など、社会への奉仕が求められる。「職人の中には、人と関わることが苦手な人も多い。手先がいくら優れていても、博物館での役割には向かない場合もある。でも僕には今の公務員であり職人であるという仕事が性に合っている。自分の技術を広く社会に伝えて再配分できることにも喜びを感じる」
修復の哲学を尋ねると、「医者のようなもの」と語る。古い時計を必ずしも新品のようにするのではない。「例えるのなら、弱ったおばあちゃんは元気なおばあちゃんに、小さな子は小さな子に戻す。修復師には、それが重要なのです。20代のように若返らせられたとしても、それはやらない。時代に見合ったものとして後世に残すのが役目なので」
思えば学生時代、修復科に入って最初に考えたことは「いま失われつつある技術やノウハウを集めて伝えたい」。時計師の学校で修復科はエリートが進む道。名前は「修復」でも卒業後は有名ブランドに就職し、複雑機構を担当することが多い。当時は先生に笑われたが、いま思えば既に自分の適性を言い当てていたのだと感じている。工具や工法を収集し記録することによって、当時の「最先端」を現代に伝える。それは「今では時代遅れに見えるものも、当時はハイテクだった」という事実を理解させる手がかりになる。
歴史をひもとき、時代ごとの機構の変遷を見つめることにも強い関心がある。「なぜある仕組みは残り、別のものは消えたのか。失敗の理由を突き詰めること自体が面白い。個人的な楽しみにとどめず、博物館を通じてシェアし、次世代へフィードバックする存在になりたい」。
独立ブランドの挫折も、名匠の工房での葛藤も経て、スイス時計の歴史をつなぐ人として、博物館に居続ける。「華やかな表舞台で新作を生み出すのもいい。だけど、時計師としてこんな生き方が出来るっていうのも、珍しいし面白いなと思ってます」