パレスチナ刺繡×着物帯 対等なビジネスで「戦争だけじゃない、素敵な一面広めたい」
丸花びらの「アーモンドの花」、ひし形を組み合わせた「ベツレヘムの星」、ステンドグラスのような色とりどりの幾何学文様……。5月下旬、東京都内で開かれたパレスチナ支援のイベントで、着物姿のモデルたちが、色も文様もさまざまな刺繡(ししゅう)が施された帯を披露した。
手がけたのは、イベントを企画した山本真希さん。パレスチナの刺繡で日本の着物帯の制作に取り組む。
「単なるファッションではなく、人々の文化、アイデンティティーでもある」
山本さんがそう表現するパレスチナ刺繡は、日本の刺し子のように野良着の補強が発祥とされ、糸を「×」の形に刺すクロスステッチの技法などが用いられる。「糸杉」「ラクダの目」「鳥の羽根」など、身近なモチーフが表現され、地域ごとに伝統の文様がある。
父は建築家、母はインターナショナルスクール教師。子どものころ数年、米国で暮らし、旅先では姉妹でイーゼルを立てて絵を描く、という家庭で育った。「きれいなもの、文化やアートは好きだけど、平和構築とか国際政治には関心がなかった」。大学で薬学を専攻し、化粧品メーカーに研究員として就職した。
そのころ、知人に誘われて国際交流のボランティアを始めた。各国大使館のイベントを手伝ったり、通訳をしたりする中で出会ったのが、駐日パレスチナ常駐総代表のワリード・シアムさんと妻のマーリさんだ。ただ、パレスチナへの認識は「砂漠、戦争、かわいそうな難民……そんな程度だった」。
転機は2013年。マーリさんからパレスチナ自治政府が主催するツアーに誘われ、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸とエルサレムを訪れた。
占領に抵抗して石を投げるパレスチナの青年と、催涙弾で応戦するイスラエル兵の衝突を目の当たりにした。一方で、ベツレヘムやヘブロンなど歴史ある街を訪ね、人々と出会った。普通の日常があり、食や衣服、工芸品や踊り、歌など、長い歴史と豊かな文化が息づいていた。
戦争のニュースだけではない、パレスチナの素敵な一面を広めたい。メーカーで商品開発を担当してきた経験から、長く続けていくには対等なビジネスの形でお金を回していくしかないと感じた。日本からも多くの支援団体が入っていたが、ビジネスをしているところはほとんどなかった。「自分一人の小さな力でも、何かできるのでは」
ヒット商品の開発にも携わり、外国での商品のプレゼンを任されるなど会社員として得た経験も大きかったが、一から新しいことをやってみたい。外国の文化を日本で紹介する仕事をしたいと、起業を考えていたころだった。
パレスチナ刺繡で帯をつくったら、きっと素敵――。趣味の日本舞踊で着物を着る習慣があったことや、タイのシルクで仕立てた着物や、着物の生地を使ったモロッコの衣装を目にしたことがあったこともヒントになった。着物好きだが業界に詳しくない。だからこそ、自由に飛び込むことができた。
2014年6月、再び現地へ。いくつも生産者団体を回った末、老舗のNPOで売られていた総刺繡のテーブルセンターを参考に柄や色、サイズを指定して注文した。
4カ月後にできあがった刺繡は、幅31センチ、長さ4.2メートルの布地にびっしり、丁寧に施されていた。「美しく、迫力があり、圧倒された」。最初のパレスチナ刺繡帯が完成した。
同じころ、化粧品会社を辞め、文化交流を手がける会社を設立。パレスチナ支援の関係者らと開いたシンポジウムで帯を披露すると、反応は上々で、さらに数本の制作を依頼した。
ただ、全面に刺繡を施した帯は、制作に半年以上かかる。重さもあり、普段使いにはハードルが高かった。発注や作業の確認、商品の受け取りの度に現地を訪ね、渡航費や制作費はかさむ。ほかの国の文化イベントなど別の仕事で費用を捻出し、貯金を切り崩して、細々と制作を続けた。
まずは知ってもらわなくてはと、自ら刺繡帯を締め、方々に顔を出した。着物の展示会に出し、中東関係のイベントや講演会にも足を運んだ。化粧品会社時代の友人に東京・青山のギャラリーを無償で貸してもらって個展も開いた。
職人の女性たちが暮らすパレスチナの村々を訪ねるときも、着物で出かけた。刺繡がどうやって帯になり、着付けられるのか、実演して見てもらった。
国連パレスチナ難民救済事業機関の清田明宏・保健局長(64)は「うちのトップも『あの帯の人ね』と覚えている。良いものをつくる信念と、それを曲げない頑固さ、でも、猪突猛進ではなく、人を巻き込み、勉強もして、考えてから猛進する力がある」と話す。
着物が好きな人も、パレスチナに関心がある人も一緒に楽しめるような展示やイベントを心がけ、「パレスチナ刺繡と帯のように、いろんなジャンルを組み合わせることで、相乗効果や新しい出会いが生まれれば」と山本さん。ドラァグクイーンのアーティストや、著名なギタリストに登壇してもらったこともある。
都内の歴史的な洋館を借りて、広くシルクロードの文化を紹介するイベントも企画した。パレスチナから刺繡職人の難民女性を招いて実演してもらおうと寄付を募り、ビザの取得など準備を進めた。
だが、開催を目前にした2020年1月、新型コロナで延期に。ほかの文化交流の仕事もパレスチナへの渡航もできなくなった。
「何もできなくなったことで、帯づくりに向き合わざるを得なくなった」
手ごろな価格で軽く、日常的に使える商品をつくろう。締めたときに正面と背中のお太鼓の部分にだけ柄が入る名古屋帯の制作にとりかかる。少ない刺繡でも美しいデザインを考え、スマートフォンで現地とやりとりを重ねた。
2021年、価格を10万円台に抑えた帯の販売を始めた。納品までを約2カ月に短縮。刺繡だけの状態で販売し、長さや仕立て方法など購入者の希望に合わせて、日本の職人に帯に仕立ててもらう。和装家の目にもとまった。
着物コラムニストの朝香沙都子さんは「外国の刺繡や染色を用いた着物は他にもあるが、自分で材料や商品を抱えて現地と行き来してというのは、エネルギーがないとできない」と評する。「素敵な帯ですね、と会話が弾み、新たな文化を知れる、すばらしいコミュニケーションツールでもある」
定期的に展示会を開けるようにもなり、ビジネスとして軌道に乗り始めた。
そんな矢先、ガザ戦争が起きた。
ガザとのやりとりができなくなり、ヨルダン川西岸でも、イスラエル軍による移動の規制が厳しくなって、郊外の村に暮らす女性たちが街の作業場に行ったり、材料を調達したりすることが難しくなった。かろうじて行き来ができる地域の職人を頼りに帯の制作を続けながら、ガザ支援のイベントも重ねる。
コロナ禍以降、渡航できていないが、これまで20回近くの訪問で培った信頼関係が、リモートでのやりとりを支えている。現地の取りまとめ役ダウラット・アブーシャウィーシュさん(56)は「マキはいつも笑顔で、他者への敬意にあふれている。帯は難易度が高いけど、やりがいも大きい」と話す。
5月のイベントから1週間後。山本さんは大阪・関西万博のステージにいた。パレスチナのナショナルデーでファッションショーを統括し、司会も務めた。
赤い振り袖に合わせたのは、黒や赤、緑、白の糸で刺繡された帯。花や幾何学の文様の中にパレスチナの旗もあしらわれている。非暴力の抵抗として旗を刺繡したとされる「インティファーダ(民衆蜂起)ドレス」から着想を得て、ガザの難民女性6人が手がけた大作だ。彼女たちとは2023年10月以降、連絡が取れていない。
「戦争は命だけでなく、文化も破壊します。パレスチナのことを話し続けましょう。沈黙はやめましょう」。山本さんが呼びかけると、会場に詰めかけた約500人の観衆が大きな拍手を送った。
一方で、ビジネスにこだわってきた山本さんは言う。「戦争がなくても、素敵だからほしいと思ってもらえる商品をつくらなくては」。顧客を広げ、注文を続けることが、質の高い商品を生む一番の道。そう信じて、今日も自慢の帯を締め、着物姿で出かけていく。