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オーストラリアの神童が味わった名門での挫折 バイオリニスト レイ・チェンさん(前編)

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
「ナショナル・ユースオーケストラUSA」の団員たちとのリハーサル=2025年7月、東京都港区・サントリーホールで。山本倫子氏撮影
「ナショナル・ユースオーケストラUSA」の団員たちとのリハーサル=2025年7月、東京都港区・サントリーホールで。山本倫子氏撮影

SNSなどネットを通じて各国に熱烈なファンを持つバイオリニスト、レイ・チェンさん。コンサートやアルバムにとどまらず、クラシック音楽ファンの外へも人気を広げ、いまでは起業家の顔もあります。幼いころにオーストラリアで頭角を現し、アメリカの名門カーティス音楽院に進み、順風満帆に歩んでいたバイオリニストへの道。しかし、世界の新鋭の中で大きな挫折が待っていました。レイ・チェンさんに迫る、連載の前編です。

2025年7月、ニューヨークにあるカーネギーホールを満席にしたばかりのバイオリニスト、レイ・チェンさん(36)は、大阪市のザ・シンフォニーホールにいた。

本番を数時間後に控え、リハーサルが始まった。

「ここはカーネギーホールより小さいよね。客席への響き方に気をつけて」

全米から選抜された16~19歳の若者たちでつくる「ナショナル・ユースオーケストラUSA」の団員たちにところどころアドバイスを送る。カーネギーホールを皮切りに、大阪、東京、香港、北京、上海とアジア各都市を一緒に巡るメンバーだ。

レイさんが共演するのは、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲。3大バイオリン協奏曲と言われるこの名曲は、約30分間、ほとんど止まることなく続き、ソリストは休む暇がない。

冒頭からさらいはじめた。有名な旋律で始まる第1楽章から、ゆったりと流れる第2楽章へ。第3楽章に入ると、軽快なメロディーを体全体で受け止め、弾むようにリズムをとる。客席に背を向け、第2バイオリンに向かって弾くと、団員から笑みがこぼれ、まとまっていく。やがて雄大なクライマックスを迎える。

クラリネットとの掛け合いを終えると、「いまのG(ソの音)は良かったね」と、デービッド・スアレズさん(18)への拍手を促した。

リハーサルを終えたスアレズさんは興奮気味だった。「レイと共演しているなんて夢みたい。彼は、僕たちの世代が音楽を通じてどう生きるかを教えてくれる存在なんです」

自分が弾いていないときには、客席の後方に座り、オーケストラの音を確かめていた=2025年7月、東京都港区・サントリーホール、山本倫子氏撮影
自分が弾いていないときには、客席の後方に座り、オーケストラの音を確かめていた=2025年7月、東京都港区・サントリーホール、山本倫子氏撮影

コンサートやアルバム録音が活動の中心だった時代から、SNSや動画配信などで広く人とつながる時代へ。変化を遂げるクラシック音楽の世界で、レイさんはその先頭を走る一人だ。

世界各地の空港や街角でアマチュアミュージシャンと一緒に弾いて周囲を驚かせたり、路上で道行く人と語らいながら演奏したり。クラシック音楽の持つ堅いイメージを打ち破り、新たなファン層を広げてきた。

YouTubeでは著名バイオリニストたちの演奏を比較して聴きどころを解説し、自分がミスした演奏の場面も躊躇(ちゅうちょ)なく見せる。クラシック音楽家のイメージを打ち壊す面白さや親しみやすさが若い世代を引きつけ、彼のSNSを通じて、初めてクラシック音楽に触れる若者も少なくない。100万人以上がレイさんのインスタグラムをフォローし、コンサートの後にはファンとの交流会が開かれる国もある。

「クラシック音楽は死にゆく芸術だという人もいる。でも、僕はファンの裾野を広げ、外の世界とつなぐ存在でありたいんです」

レイさんが自己評価した力。「過去に、全部に満点をつけた人なんていた?」と聞き、ちょっと遠慮して「体力」と「行動力」を減点した。
レイさんが自己評価した力。「過去に、全部に満点をつけた人なんていた?」と聞き、ちょっと遠慮して「体力」と「行動力」を減点した。

レイさんは台湾に生まれ、生後半年で、オーストラリア・ブリスベンに移住した。子どもの教育にかけた両親が「西洋の教育を受けさせたい」と移住を決意したためだ。父親はブリスベンで一から事業を始め、母親はチェンさんと6歳年下の妹の教育に心血を注いだ。

4歳のとき、おもちゃのギターをあごにあて、箸で弦をたたいて遊ぶのを見た母親が「バイオリンを習わせてみよう」と思いつく。趣味でピアノを弾いていた母は、幼いころに専門的に学ぶ機会がなかったことを悔やんでいた。だからこそ、子どもに早くから音楽を習わせたいという思いは強かった。

近所で子どもたちにバイオリンを教えていた音楽一家のもとで、耳から曲を聞き取って弾く日本生まれの「スズキ・メソード」で習い始めた。

練習したらゲームをやらせてもらったり、わずかなお小遣いをもらったり。「ご褒美」につられて練習を重ねた。間違えても下手でも、弾いてみせると両親は手をたたき、足を踏みならして喝采してくれた。家族に聴いてもらい、ほめてもらうことで練習を支えてもらい、新たな学びを得る――。そんな経験は、のちに彼の活動に大きな意味を持つようになる。

「ナショナル・ユースオーケストラUSA」の団員たちとのリハーサル。冗談を言って、何度も笑い声が上がった=2025年7月、東京都港区のサントリーホールで。山本倫子氏撮影
「ナショナル・ユースオーケストラUSA」の団員たちとのリハーサル。冗談を言って、何度も笑い声が上がった=2025年7月、東京都港区のサントリーホールで。山本倫子氏撮影

幼いころ、心に刻まれた出来事がもう一つある。1998年の長野冬季オリンピックだ。

レイさんがバイオリンを学んだスズキ・メソードは、長野県松本市に長年暮らしたバイオリニストで教育者の鈴木鎮一氏が考案した教育法だ。長野の冬季オリンピックには、スズキ・メソードで学ぶ世界中の子どもたちが招待され、みなで一緒に演奏することになった。レイさんも選ばれた一人だった。

初めて日本を訪れ、世界中の同世代の子どもたちに出会い、ホームステイも経験した。いまでも日本のホストファミリーとは連絡を取り合っているという。

「バイオリンをやっていたことで、日本に行き、いろんな国の人たちと会えた。こんな小さな木の箱(バイオリン)によって、世界が広がるんだと知った初めての体験でした」

プロのバイオリニストになる夢が芽生え始めたのもこの頃だ。オーストラリア国内のコンクールで優勝し、若き才能として一躍注目を浴びた。「年上の参加者たちをおさえての優勝で、最高の気分でした」

だが、オーストラリアはクラシック音楽の中心である欧米からは遠く、指導者も少なかった。レッスンを受けるため、13歳になると月に2度、一人で飛行機に乗り、約900キロ離れたシドニーのモーテルで過ごすようになる。

本番前の楽屋で=2025年7月、東京都港区・サントリーホール、山本倫子氏撮影
本番前の楽屋で=2025年7月、東京都港区・サントリーホール、山本倫子氏撮影

高校生になるとバイオリンに集中するため、学校を辞め、ホームスクールに切り替えた。合格率数パーセントとも言われるアメリカの名門カーティス音楽院を目指し、バイオリン中心の生活が始まった。1度目の受験は不合格。だが翌年、2度目の挑戦で、合格通知を受け取った。15歳だった。

カーティスへの入学は、オーストラリアからアメリカへ移る大きな変化だった。家族全員でアメリカに移住することも考えたが、レイさんは一人で暮らすことを選んだ。「家族の将来が自分にかかるというプレッシャーを背負いたくなかった」と明かす。

アメリカでの生活には慣れていったが、カーティスの世界トップレベルの厳しさを知るのは、その後のことだ。

「自分には何もない」 悩んだカーティスの日々

カーティスでは、室内楽のメンバーを募集する伝統の「公開オーディション」があった。教授や学生たちの前で初見の楽譜で、飛び入りで弾いてみせるのだ。新入生の力量が厳しく測られる場でもある。

スズキ・メソードで耳から音を覚えてきたレイさんには厳しい内容だった。事前にどんな曲が課題になりそうか聞き出し、朝から晩まで図書館にこもって録音を聞き続けた。だが、とうてい、短期間に全ての曲は覚えきれない。思い切って第2バイオリンだけに狙いを定めた。それでも間に合わず、図書館で寝てしまう日々。そして、オーディションの日を迎えた。

ハイドンを演奏するという室内楽グループがいた。第2バイオリンを募集するという。レイさんは思いきって手を挙げた。みなの前に出て弾き始めて間もなく、「休み」で止まるべきところを飛ばしてしまった。あっという間に音がずれた。うまく戻る技もない。周囲の空気が一変した。

「最後まで弾いたのか、途中でやめたのか、今でも思い出せない」。覚えているのは、家に帰って号泣したことだけだ。

後日、学内でうわさを聞いた。「あいつ、どうやってカーティスに入ったんだ?」「一緒にやりたくないな」

「自分にはなにもない。そう認めるしかなかった」

オーストラリアの家族から遠く離れ、アメリカでひとり、ゼロからの出発だった。