米軍はサイパンを南から北へ、テニアンでは北から南に向けて侵攻した。日本軍と民間人はサイパンの北端、テニアンの南端にそれぞれ追い詰められた。サイパン北端には「バンザイクリフ」と「スーサイドクリフ」が、テニアン南端には「スーサイドクリフ」とそれぞれ名付けられた崖がある。追い詰められた人々は次々に崖下の海や陸地に向けて身を投げた。バンザイクリフだけで約1200人が投身したという。生き残った人々の証言によれば、海は赤く染まり、あちこちで「お母さん」と叫ぶ声が聞こえたという。
サイパン・テニアン戦が始まったのは1944年6月だが、住民や兵士の苦痛はずっと前から始まっていた。1943年当時、サイパン島全体の人口約3万3000人のうち、日本人が約2万9000人を占めていた。1944年2月からお年寄りや子供、女性などの疎開が始まったが、3月に硫黄島近くで輸送船亜米利加丸が撃沈されて500人以上の民間人が死亡する事件も起きた。
日本が支配していたサイパンはサトウキビ栽培と製糖業で栄えた。当時、サトウキビを運んだ軽便鉄道の「サトウキビ列車」のドイツ製機関車が島内に展示されている。そのそばに、島で唯一の手術設備が整った南洋庁サイパン医院があった。すでに米軍上陸前から、負傷兵があふれ、病院のそばの野原には天幕が張られ、野戦病院と化していた。サイパン島に増派される日本軍の輸送船を狙った米軍の潜水艦攻撃で、死傷者が続出したためだ。負傷した兵士らは上陸しても、すぐに野戦病院には収容されず、上陸地点から数キロ歩かされて彩帆(さいぱん)香取神社への「必勝祈願」を強制されたという。
米軍のサイパン上陸で、日本軍と住民は徐々に北に追い立てられた。野戦病院も移動を余儀なくされ、島中央にあるタポチョ山近くのドンニーの野戦病院に移った。「病院」と言っても、米軍の砲撃をわずかでも避けようとジャングル内の洞窟群の地面に、そのまま約2000人の患者が寝かされていたという。ジャングルを分け入って数分歩くだけで、汗が噴き出す。近くに水源がないため、元気な人が水筒を七つも八つも首からかけ、2キロほど離れた場所に水をくみに出かけたという。
ドンニーの野戦病院にも米軍が迫り、開設から1週間ほどでさらに北の「極楽谷」への移動が決まった。慰霊団などの案内をしてきた北マリアナ諸島自治連邦区の公認ガイド、高橋香織さんによれば、自力で移動できない患者には手榴(りゅう)弾が渡された。患者たちの決心がつかない様子を見て、看護兵の一人が手榴弾を持ち、患者たちに話しかけたという。「皆さん、準備できましたか。では私から先に行かせていただきます」。それから、次々に起きる爆発の音を聞きながら、皆、米軍の照明弾が光るなかを歩いて移動したという。極楽谷が最後の野戦病院になり、ここでも多くの人々が自決した。
生き残り、戦後にサイパンへ慰霊に訪れた人々は、高橋さんに「生き死には運命だ。自分では決められない」と口々に語ったという。艦砲射撃は同じ場所に集中する。「自分は助かったが、おぶっていた妹には砲弾の破片があたって亡くなった」と語った人もいた。「母を撃ち殺したのに、子供だった私は足を撃たれただけで、水筒の水をくれた米兵もいた」と証言する人もいた。
サイパンに住むリノ・オロパイさんは当時、4歳だった。日本人の父親を持ついとこの女性は、日本人と一緒に逃げた。顔立ちが日本人そっくりで、バンザイクリフでは一緒に自決するよう迫られた。オロパイさんは戦後、何回かこの女性から詳細な話を聞こうとしたが、女性は涙するばかりで、それ以上は言葉にならなかったという。
テニアンにも同じような傷痕がたくさん残っていた。
日本陸軍の防御陣地だった場所には、米軍の火炎放射器で黒くなった岩が残されていた。テニアン島のノースフィールド飛行場のA滑走路そばに日本軍の地下燃料貯蔵庫があった。コンクリートに混ぜたサンゴ礁の成分が長年の雨水とともに天井から浸透し、鍾乳洞化が始まっていた。
2003年からテニアンに住むミホ・エバンジェリスタさんは、生き残った人々から様々な話を聞いた。ある男性は「子供を抱いて妻が飛び降りようとした。恐ろしいので、後ろ向きになり、私が肩を押した。その次に私が飛び降りようとすると、米兵に肩をつかまれて止められた」と語った。「子供を真ん中に車座になり、手榴弾で集団自決した人々があちこちにいた」という証言もあった。梅干しの壺に子供の遺骨を入れて、埋めてから逃げたという話も聞いたという。
かろうじて生き残った人々の苦難も続いた。生き残った人々は収容所に入れられ、不十分な食料と不衛生な生活に耐えなければならなかった。
戦前のサイパン・テニアン両島には沖縄からの移民が数多くいた。サイパンの半数、テニアンの約7割の日本人が沖縄出身と言われた。当時は、日本本土からの公務員や軍人、沖縄出身者、朝鮮半島出身者、もともとの島民といった具合に差別もあったという。「本土を追い越せ」という合言葉で教育を施したため、みな標準語の授業を受けた。沖縄に戻った人々は、逆にその標準語のために差別に遭ったという。
サイパン・テニアンの戦いから80年。生き残った人々や遺族の高齢化が進み、両島を訪れる人も減る一方だ。テニアンでは最近、原爆発進基地として使われたノースフィールド飛行場の拡張工事が始まった。中国軍の弾道ミサイルの脅威に備え、航空拠点を増設・分散化させる動きの一環だという。人々はまた、同じ歴史を繰り返すことになるのだろうか。