証券会社時代に見た忘れられない光景といえば、破滅的な損失を出した、ある顧客のことだろうか。
その顧客は長年まじめに勤めた会社を定年退職し、まとまった額の退職金を受け取ったばかりだった。
当時のことなので、年齢は60歳くらいだろう。
老後に備えてとお考えのようだったが、数千万円あった運用資産が最後には数百万円ほどにまで減ってしまっていた。
もうずいぶん昔のことであり、担当でもなかったので正直なぜそんなことになったのか、よくわからない。
ただ、現物株からはじめた投資で小さく資産を増やすと、やがて信用取引(お金や株を借りて行う取引)を、最後にはデリバティブのようなものにまで手を広げていたように記憶している。
資産が激しく減っていく局面、その顧客からは「担当を出せ!!」とすごい勢いで電話がかかってきたが、やがて消えそうな声に変わり、そのまま連絡が無くなってしまった。
これは極端な例かもしれないがしかし、せっかく資産運用に取り組んだのに成果を挙げられない人には、一つの特徴があったように思う。
それは「勝ちたい」「儲かりたい」と考え、意思決定をする人だ。
逆に、「負けない」「損をしない」と考え意思決定をする投資家は、着実に成果をあげる人が多かったと思っている。
そして今、これは決して株式投資だけではなく、会社経営や人生、転職や麻雀ですら有効な考え方だと確信している。
では、この「勝ちたい」と「負けない」という二つの考え方。
同じような価値観に思えるが、いったい何が違うのだろうか。
「尊敬できるリーダーで良かった」
話は変わるが、先の大戦の激戦地といえば映画「硫黄島からの手紙」でも描かれた、小笠原の硫黄島を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
日米の島嶼戦において、米軍の死傷者数が日本軍を上回るほどの大激戦となった、数少ない戦場である。
タラワやサイパンの戦いでは、日本軍守備隊はほとんど成果を挙げられないまま短期間で全滅してしまっていることを考えると、驚くべき戦果だろう。
ではたった半年や1年余りで、いったい何が変わったというのか。
それまで、上陸阻止戦の常識といえばどこの国でも“水際作戦”を用いるのが一般的だった。
すなわち、海岸線に上陸してくる敵を強固な堡塁で迎え撃つというものである。
肌感覚でもわかると思うが、小型の舟艇などで上陸をしてくる敵兵はほぼ丸裸になる。
そこに迫撃砲1発でも撃ち込めば、一度に数十名程度の敵を無力化できるので、狙わない手は無いというものだ。
しかし米軍には、このような戦い方は全く通用しなかった。
米軍は上陸作戦前、入念な準備で空爆し島の構造物を破壊すると、さらに上陸作戦時にも強烈な艦砲射撃で海岸線付近を徹底的に破壊する。
海・空を掌握している米軍にとって、海岸付近の堡塁など「ここに固まってます」と言っているようなものだのだから、当然だ。
このようにして、タラワやサイパンでは何もできないままに、日本軍は敗れていった。
では、これら敗戦を教訓にした硫黄島守備隊の指揮官、栗林忠道・中将はどうしたか。
栗林は、もはや海岸線での防衛は無意味であると考え、水際作戦をほぼ全て放棄する。
そして内陸部に広大な地下要塞を建設すると、まず敵を上陸させ、上陸した敵を坑道など複雑な地形に引き付け、そこで挟撃する作戦を採った。
いわば大規模なゲリラ戦ということだが、劣勢な戦力で優勢な戦力に対抗するには、現代においても極めて有効な戦法である。
実際に米軍は、5日で落とすと豪語していた硫黄島攻略に40日近くもの代償を支払い、守備隊以上の死傷者を出す結果になったことは先述のとおりだ。
しかしその上で、ここで言いたいことは
「戦法を変えたので、日本軍守備隊は成果を挙げることができた」
というような話ではない。
「なぜそんな戦い方を、本当に実行できたのか」ということだ。
硫黄島は、その名が示す通り灼熱の火山島である。
年中高温で、戦前は硫黄の採掘で生計を立てる島民が1,000人ほど暮らすだけの、ただ生きているだけでも過酷な島だった。
そこに、島民を疎開させ2万人の将兵が渡ってきたわけだが、1,000人がギリギリ生活できるだけの島に2万人が渡ってきたらどうなるか。
水も食料も足りず、かといって本土からは1,000km以上も離れているので、まともな生活すらできるわけがないというものである。
想像してほしいのだが、もしこんな島に渡り、食料も水もないまま過酷な戦闘を命じられたら、何を思うだろう。
勝てるわけがなく、生きて帰れないことは末端の兵士でも理解できる戦場である。
恥ずかしながら、私ならまともな士気や精神状態を維持できるかすら、自信がない。
そのような島で、栗林は将兵たちに1日でも長く生きて戦うことを厳命した。
クソ暑い地下壕に立てこもり、水も食料もないままに戦い自決をすら厳禁した。
そんな状態で、日本軍は最後の一兵に至るまで高い士気で戦ったからこそ、チート状態の米軍に大打撃を与えられたのである。
なぜこんな悪条件で、ここまで組織を統率できたのか。
その答えを探るヒントとして、こんな話がある。
栗林が硫黄島に着任したのは、米軍が上陸する1945年2月からさかのぼること8カ月前の1944年6月であった。
そして着任すると直ちに、自分自身を含めて幹部・将校全員に対し、一兵卒と同じ食事を摂ることを命じる。
当時の陸軍中将と言えば貴族的な存在であり、食事の皿の数も規則で決まっていたのだが、栗林は、
「ならば空の皿を並べろ」
と命じたほどだった。
なおこれは決して精神論ではなく、兵士たちがどの程度の栄養を摂れており、どの程度の体力を維持できているかを肌感覚で知るためのものだった。
水も食料もない島で戦う指揮官として極めて現実的な判断であるが、しかしそんな指揮官を将兵がどう思ったか、想像に難くないだろう。
またある時、本土から極めて貴重なキュウリやトマトなどの生野菜、真水が自分宛てに届けられた時のこと。
栗林は涙を流しながらそれを受け取ると細かく切り、その全てを部下に分け与えたと、参謀本部の朝枝繁春・中佐が記録に残している。
野菜や水が届いたことを部下のために泣くような指揮官など本当なのかと、胸が詰まる話である。
このようにして8カ月間、絶海の孤島で2万人の将兵を想い毎日現場を歩き、現場を正しく把握することに務めていた指揮官であったが、開戦前には2万人全員が栗林の顔を知っていたという。
それほどに、現場も将兵も大事にした栗林は万全の体制で、米軍上陸を迎え撃ったということである。
先に私は、「まともな士気や精神状態を維持できるかすら、自信がない」と書いたが、しかし指揮官が栗林であればきっとこう思うだろう。
「死ぬことは避けられないだろうが、せめて尊敬できるリーダーで良かった」と。
硫黄島で米軍を苦しめたのは確かに、地下壕にこもるゲリラ戦が有効だったからだろう。
しかしそのような戦い方を本当に維持・実行できたのは、栗林が指揮官だったからこそに他ならない。
このようなリーダーシップが、今を生きる私たちに示唆することは余りにも多い。
”バカでもできるリーダーシップ”
話は冒頭の、「勝ちたい」と「負けない」についてだ。
なぜ「勝ちたい」「儲かりたい」と考える人は敗れ、「負けない」「損をしない」と考える人は生き残れるのか。
株式投資に限らず、経営でも転職でも麻雀でも同じだが、「勝ちたい」という欲望が前に来る人はだいたいが、“良い情報”しかみようとしない。
パチンコにハマっている人がいい例だろう。
あのような博打とも言えない博打は、「負けない」「損をしない」と考える人は近づきもしないが、「勝ちたい」「儲かりたい」と考える人たちは次々と万札を突っ込んでしまう。
勝った時の記憶、すなわち“良い情報”を根拠に結果を予測するからだ。
当然、長い目でみて敗れるに決まっている。
一方で「負けない」「損をしない」と考える人は、例え麻雀で良い配牌がきても決め打ちなどしない。
河(捨て牌)や点数を考慮し、他のプレイヤーの狙いを推測し、リスクと選択肢を探る。
経営者に置き換えれば、良い情報に舞い上がらずマーケットを俯瞰し、「やりたいこと」ではなく「やるべきこと」を探るリーダーであるといってよいだろう。
だから「負けない」「損をしない」と考える人は生き残るということである。
そして話は、栗林忠道・中将についてだ。
栗林にとっての硫黄島は、「勝つため」ではなく「敗けないため」に生き残ることを義務付けられた戦場だった。
米軍に長期間・大規模な損害を与え続けたらやがて米国内で厭戦気分が広がり、世論に押されて和平交渉の機運が広がるかもしれない。
若い頃、米国に留学していた栗林はそれを知り尽くしていた。
だからこそ、目の前に小さな“勝ち”が見えても軽率な攻勢など選ばず、一日でも長く戦うため一人ひとりの命を大切にしたということだ。
攻撃、すなわち「勝ちたい」と思って突撃するなど、バカでもできるリーダーシップである。
しかし「負けない」ための組織を作り、修身に務め、戦いにあってはひたすら耐えることができるリーダーとなると、めったにいるものではない。
それこそが、歴史に残る激闘を指揮した栗林の、本当のすごさであったのではないだろうか。
長い目で見た時の「勝ち」などというものは、負けないように忍耐強く10年待ってはじめて、1回訪れるかどうかのレアなものだ。
企業経営者であれ駆け出しのビジネスパーソンであれ、まずは「負けない」ことを意識しながら日々の務めをこなしつつ、”その時”のために力を蓄えてほしい。
そんな目標を持った時、栗林中将の生き方からきっと多くのことを学ぶことができると、確信している。