もう30年近くも前のことだが、証券会社の新入社員だったころの話だ。
部長から呼び出され、「今日は支店長が昼食をご馳走して下さる。時間を空けておくように」と、指示を受けることがあった。
当時、私が所属していた支店は大店(おおだな)だったので、支店長といえば役員待遇のエライ人である。
そのため部長、支店長と一緒に食べるランチなど、駆け出しの私にはただただ、苦痛で苦行でしかない。
しかもご丁寧に、連れて行かれたのは静やかな庭にある離れのようなお店だったので、上品な空気に踏みしめる玉砂利の音すら、ヒヨッコの私には暴力的に感じられた。
その席で聞かれたのは大学時代の専攻や趣味、学生時代に力を入れたことなど、採用面接のような内容だっただろうか。
圧倒的な上下関係の中で、「ただただ失礼がないように」食べる食事など、とにかくクソ不味(まず)い。
恐らく私の人生で一番古いランチの記憶だが、メインは衣カリカリのポークカツレツであったことまで鮮明に覚えているほどだ。
粒感を残しているフレッシュトマトソースをフォークで寄せながら、この時間が早く終わることをひたすら、世界中の神々に祈っていた。
しかしその時、妙に冷静なもうひとりの自分がこの状況を観察し、こんなことも考えていた。
「俺はなんで、この時間を楽しめてないんだろう?」
元来、人見知りをせずに図々しい性格の私は、目上の人からご馳走してもらうのが大好きであった。
美味しいメシやお酒に誘われると、リードを手にしたご主人さまを前にしたワンコのように目をキラキラさせ、お誘いに乗っていたものである。
にも関わらず、なぜ今はこんなにも苦痛なんだろう。
結局その答えを私が明確に理解できたのは恥ずかしながら、当時の支店長くらいの年齢になってからだろうか。
そしてそれが理解できると、最近の若い人たちの多くがなぜ、会社での飲み会を嫌うようになったのかも理解できるようになった。それはどういうことか。
「あたし、およめに行くのやめる!!」
話は変わるが、私が25歳の時のことだ。
中学時代からの親友であった島田が結婚をするということで、電話をかけてきてくれたことがある。
ゲーム機メーカー大手で開発部門の技術者をしている彼は、風の便りで数ヶ月に1回はぶっ倒れ、入院して点滴を受けているとのことだった。
そのため電話で話すのは、成人式以来だっただろうか。インターネットも普及していない時代、激務の中でよく恋人と意思疎通をする時間があったものだが、なんせ喜ばしい吉報である。
しかし一つ、彼はとんでもない相談をしてきた。
「でな、桃野。当日お前に、友人代表でスピーチをして欲しいねん」
「友人代表でスピーチ!?ムチャ言うなや。俺、そんなんしたこと無いぞ?」
「頼むわ…。式には会社の役員とか地方議員とかもくるんで、下手なこと言いそうなやつには頼めへんねん」
「マジか…」
断りきれずこの大役を引き受けたものの、それから式当日まで私はひたすら憂鬱な日々を送ることになる。
無難なセンだと、島田の人となりを紹介したり、どれだけ素晴らしいヤツであるのか、あるいは彼との思い出話を語ればいいのだろう。
しかしそんな内容で、会場の誰も耳を傾けるとは思えない。
何よりも島田は、優しくてイイヤツではあるが、全てをべた褒めするような人格者でもなくアニメオタクの変人である。
心にもない褒め殺しで、友人代表の名誉な役割を汚したいとも思わない。
迷った私は、新婦のご両親をターゲットにスピーチを組み立てることにした。
誰にとっても無難なスピーチなど、二人の門出に華を添えるものにはならないだろう。
であれば、せめて新婦のご両親に向けメッセージを贈り、「新郎はいい友人に恵まれている」と思ってもらえること、それを最低限のゴールに設定したということだ。
そして迎えた当日。指名を受けると私はマイクの前に立ち、話し始めた。
「島田くんの中学時代からの友人で桃野と申します。今日は新郎の友人代表ということで、お話をさせて頂きます」
…案の定、既に酒が一巡している会場は乱痴気騒ぎである。誰一人、私の話を聞いていない。
「正直私は余り、スピーチが上手ではありません。そのため今から、あるマンガの名シーンを朗読します。宜しければしばし、お付き合いください」
そして新婦側の両親の席に向き直ると、1冊の漫画本をポケットから取り出し、読み上げ始めた。
「パパ!あたし、およめに行くのやめる!!」
騒がしかった会場が一瞬で、嘘のように静まり返った。100名近い出席者の目が全て、私に注がれるのを感じた。
しかしもう、やり始めてしまったことである。私は構わず続けた。
「わたしが行っちゃったらパパ寂しくなるでしょ?これまでずっと甘えたりわがままいったり…。
それなのに私のほうは、パパやママになんにもしてあげられなかった」
「とんでもない、君はぼくらに素晴らしいおくり物を残していってくれるんだよ」
「おくり物?私が?」
「そう、数えきれない…ほどのね。最初のおくり物は、君が生まれてきてくれたことだ。午前三時ごろだったよ。君の産声が天使のラッパみたいに聞こえた。あんなに楽しい音楽はきいたことがない」
ここまで来たら出席者の誰もが、私が読み上げているマンガが何であるのか気がついたようだった。
そしてさらに静かになった会場に向かって、感情MAXで朗読を続ける。
「病院を出たとき、かすかに東の空が白んではいたが、頭の上はまだ一面の星空だった。
この広い宇宙のかたすみに、僕の血をうけついだ生命がいま、生まれたんだ。そう思うと、むやみに感動しちゃって。涙がとまらなかったよ。
それからの毎日、楽しかった日、みちたりた日びの思い出こそ、きみからの最高のおくり物だったんだよ。
少しぐらいさびしくても、思い出があたためてくれるさ。そんなこと気にかけなくていいんだよ」
そしてマンガを閉じると高砂に向き直り、こう声をかけた。
「島田、アニメ好きのお前ならわかってると思うけど、これは『ドラえもん のび太の結婚前夜』の、お父さんと静香ちゃんの結婚前夜の会話だ。きっと今日の日を、新婦の久美さんとご両親はこんな気持ちで迎えたんだと思う。責任はとんでもなく重いけど、しっかりと頑張ってくれ」
島田はすでに、顔を真っ赤にして涙を堪えている。昔から涙もろいやつだったが、相変わらずチョロいやつだ。
そして新婦さんの方に向き直り、続けた。
「久美さん、実は静香ちゃんのお父さんは結婚に迷う彼女の背中を、こんな言葉で最後に一押しします。もう少し聞いて下さい」
「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。かれなら、まちがいなくきみを幸せにしてくれるとぼくは信じているよ」
「久美さん、島田は昔からのび太のように鈍くさいやつでしたが、この通りの人間です。10年以上も一緒にいる、私の自慢の親友です。至らないやつですが、どうか宜しくお願いします!本日は誠におめでとうございました!」
実に、スピーチの9割がたをドラえもんの朗読で逃げ切った。さすがにやり過ぎたかと少し後ろめたい思いだったが、この後に意外なことが起きる。
大きな拍手を頂くと新婦のご両親が席に来られ、「心から感動しました、ありがとうございました」と仰って頂く。
さらにビールを注いで頂き歓談していると、新郎新婦の主賓や招待者から次々に名刺交換を求められ、退出の際には島田から改めて、涙ながらにお礼を伝えられた。
ちょっとやりすぎかと思ったが、大役を果たせて本当に心からホッとした。
正直この時のことは、いいアイデアが思い浮かばない中で苦し紛れにやったことだった。
しかし結果として「ドラえもん」が、良い結果に繋がったのだと思っている。なぜか。
「ドラえもん」が会場の全員に伝わる存在であり、世代的にも全員が理解できる“共通言語”だったからだ。
誰にとっても感動できる話で、誰もが知っているエピソードを引用し、島田の人となりを伝えた。
そして新婦への思いやりと、そのご両親への感謝を忘れないように、スピーチを組み立てることができた。
偶然とはいえ良い仕事ができたと、今でもささやかな誇りに思っている。
美味いメシ=ドラえもん、ではない
話は冒頭の、支店長との苦痛メシのことについてだ。
最近の若い人たちの多くがなぜ、会社での飲み会を嫌うようになったのか。
そもそも論だが、私を含む昭和の「肉がごちそう」の時代に育った世代は、美味いメシを無条件の「共通言語」だと勘違いしているということはないだろうか。
言い換えれば、「美味いメシを一緒に楽しむと、無条件で距離が縮まる」と思い違いをしているということである。
確かに世界の外交の場でも、美味い酒と美味い飯は不可欠のツールではある。
価値観、世代、環境、ニーズ、ウォンツ…さまざまな国家と人間に世界はあふれているが、メシを食わずに生きている者はいない。
だからこそ、美味いと思えるメシを共に囲み、最初の“共通の価値観”を得てお互いを理解し、シンパシーを積み上げる足がかりにする。
そのこと自体は正しいし、同じ目的で上司や部下、恋人との初デートなどで美味しい食事をセッティングすることは、間違いではないだろう。
しかし、もし招待をする側に相手を思いやるホスト意識が欠けていたら、どうなるだろうか。
つまり「招かれる人のための食事会」ではなく、「招く者のための食事会」である。
さすがに私をランチに招いてくれた支店長に、私をもてなそうなどという思いはなかっただろうし、そうあるべきだとも思わない。
だからあの空間では「美味いメシ」はなんら共通言語として機能せず、苦痛な押し付けになってしまったということだ。
ムダにメシを共にするよりも、支店長室に呼び出してもらい、仕事として質問をしてもらった方が100倍機能したはずだ。
先のドラえもんの話にも共通するが、披露宴の場では「ドラえもん」が世代的にも、その場にいる全員の共通言語として機能してくれた。たまたまだが。
そしてその共通言語を、正しい目的で活かすことができた。だから結果として、型破りではあったが皆の心に届いたのだと理解している。
果たして私たちは、人を食事に誘う時に本当にホスト意識を持ち、「招かれる人の立場になって」場を用意できているだろうか。
美味いメシを無条件の「共通言語」だと勘違いして、自分勝手な飲み会に部下や恋人を呼びつけていないだろうか。
せっかくの美味いメシである。誰にとっても機能する共通言語を正しい方法、正しいタイミング、正しい目的で使いこなしてほしい。
それこそが”一期一会”の心であり、人の心を一番豊かにする幸せな時間なのだから。