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闘病中の本田美奈子.さんが歌った「アメイジング・グレイス」 最期まで誰かのために…

桃野泰徳の「話は変わるが」~歴史と経験に学ぶリーダー論 更新日: 公開日:
本田美奈子.さん
本田美奈子.さん=2003年11月、大阪市、時津剛撮影

40代以上の人であれば、「若い頃に好きだったアイドルは?」と聞かれれば、本田美奈子.さんの名前を挙げる人も多いのではないだろうか。

華奢な体から想像もつかないような声量、澄んだ歌声で多くの人々を惹きつけた、昭和から平成にかけて活躍した実力派の歌手だ。

しかし2005年1月、急性骨髄性白血病と診断されると同年11月6日、闘病の甲斐なく38歳の若さで帰らぬ人となった。

人気絶頂の時であったことを含め、多くの人の記憶に残り続けている女性のはずだ。

そんな本田さんについて、亡くなる3カ月ほど前の話だが、こんなことがあった。

一時退院の前日、病室を出てナースステーションの前までくると、やせ細った体に力を込めて背筋を伸ばし、突然アカペラで歌い始める。

Amazing grace,how sweet the sound
(大いなる神の恵み、なんと甘美な響きだろう)

That saved a wretch like me
(私のような哀れな者ですら、救って下さった)

I once was lost,but now I'm found.
(道を見失いさまよっていた私を導いて下さった)

Was blind,but now I see
(以前は闇をさまよっていたが、今の私にはハッキリと見える)

……

彼女が披露したのは「アメイジング・グレイス」だった。

世界でもっとも知られる賛美歌の一つで、アメリカでは第二国歌と言われるほどに愛されている曲である。

居合わせたナースやドクターたちは驚き、あるいは号泣し、顔を真っ赤にして涙を堪えながら、彼女の「最期の歌声」に心を預ける。

彼女自身も涙を浮かべ歌い上げたこの3分30秒は、結果として命の最期の輝きになってしまった。

元々アメイジング・グレイスは、本田さんの得意な持ち歌だった。

そのため私はこの話を知った時、「お世話になったナースやドクターに、得意な持ち歌でお礼をしたのだろう」と、ただそれだけの話だと思っていた。

しかしそれから随分と時間が経ち、今はそう思っていない。

彼女はあの時、意味があってこの歌を選び、歌ったのだと確信している。

「アメイジング・グレイス」を披露する本田美奈子.さん=日本コロムビアの公式YouTubeチャンネル

絶望の底で見えたもの

話は変わるが、「松井新二郎」というお名前を聞いたことがある人は、どれほどいるだろうか(以下敬称略)。

昭和から平成にかけ、視覚障害者の社会進出に多大な貢献を果たし、大学進学や職業選択の拡大に大きな成果を残した人物だ。

松井本人は25歳まで頑強な体に恵まれた健常者であったが、1939年(昭和14年)、日中戦争で両目を負傷し、光を失った中途失明者である。

松井新二郎さん
松井新二郎さん=朝日新聞社

20代の半ばにして視力を失った松井のショックは大きなものだったが、ここからの立ち直りは凄まじかった。

傷痍軍人であった彼は国の援護の下、様々な職業訓練を受け社会復帰を目指すが、この時に与えられたのは楽器演奏やピアノ調律師など、本人の希望に必ずしも沿わない選択肢ばかり。

そのため点字の猛勉強を繰り返し、わずかに流通し始めたばかりのカナタイプライターに点字を割り振ってもらうと、全盲でありながら完璧な読み書きをこなす。

さらに松井は、全盲の視覚障害者であっても高等教育を受け、社会に役立つ人材になれることを証明してみせようと、日大に進学を果たす。

そして多くの教科書や専門書を自ら点字訳し研究を重ね、大学院にまで進学して周囲を驚かせた。

松井はその後、視覚障害者向けの教育や職業訓練といった支援活動に生涯を捧げることを決意し、速記タイピストや録音タイピストをはじめとした新しい仕事に、教え子を多数、送り出している。

また国家公務員採用試験に点字受験の導入を実現するなど、

「目が見えないのは、人体の障害の一部に過ぎない。いわば私は、視力のない健康人である」
(『手の中の顔』松井新二郎著)

という理念を実現できる社会づくりに、大いに貢献した。

そんなこともあり、ヘレン・ケラー賞、吉川英治文化賞、文部大臣賞、厚生大臣賞、黄綬褒章など広くその活躍を讃えられるのだが、1995年3月、多くの人に惜しまれながら80年余の生涯を閉じた。

松井のこのような生涯が多くの人に勇気を与えるものであったことは、間違いないだろう。

しかし私がここでお伝えしたいのは、実はそのことではない。

松井がこのような人生を歩んだか、あるいは自暴自棄になって人生をぶち壊してしまっていたかは、実は紙一重であったという事実だ。

松井は後年、中途失明者になった25歳のときのことを、

「私の人生から、一切の夢と希望が消えました。(中略)何もかも壊滅でした」
(『手の中の顔』松井新二郎著)

と振り返っている。

実際に点字訓練に取り組み始めた時、彼は点字版を床に叩きつけ、点字用紙を破り捨てるなど、手がつけられないほどに大暴れした。

当時彼を支えるスタッフには、後に人生を添い遂げることになる糸子氏(以下敬称略)もいたのだが、彼女の献身的な助力も言葉も松井には届かなかった。

しかしそんなある日、彼と同じように視力を失い入院中だった同室の患者が必死になって点字を読む音を耳にした時、彼はとつぜん悟る。

「自分は点字に抵抗することで、まだ目が見えるようになると思っているのではないか。なんと愚かなことだろう。」
(『盲人福祉の新しい時代』松井新二郎伝刊行会)

彼は、自分自身の置かれた状況、できること、できないことを客観視せず、“ニセモノの希望”にすがろうとしていたということだ。

もしかしたら、また目が見えるようになるのではないか。

であれば、光を失ったことなど、認める必要があるものか。

点字など、意地でも学んでたまるかと。

その事にハッキリと気がついた松井は、この日を境に変わった。

“ニセモノの希望”とキレイに決別し、点字の猛勉強に取り組むと糸子にラブレターを出したいがために、カナタイプライターまで使いこなすようになる。

そして読み書きを完璧に習得し、糸子との愛を確かめあうと、程なくして2人は結婚。
その後、松井がどのような人生を歩むことになったかは、先のとおりである。

この日のことを糸子は後年、こう表現している。

「たとえば迷いに迷った末、本街道に辿り着いた旅人が、ほっと喜び勇んでその広く開けた街道をわき目もふらずにいそぐように、(中略)明けても暮れても点字の稽古に余念がなかった。」
(『燈心草』松井糸子著)

文字通り絶望の深淵まで落ち、道を見失い迷いに迷った松井であったが、糸子への愛のために這い上がり、また糸子の愛が彼を救い上げた。

そしてその延長線上の人生で、多くの人から受けとった温かい想いを世の中に”恩返し”し、多くの偉業を成し遂げ、意義深い人生を全うしている。

松井にもし、糸子をはじめとした周囲の人からの温かな支援がなければ、きっと彼は自暴自棄になり全く違う人生を歩んでいただろう。

「愛」が持つ力は、けっしてファンタジーではない

話は冒頭の、本田美奈子.さんについてだ。

彼女はなぜ、最期の歌にアメイジング・グレイスを選んだのか。

本田さんは1985年に17歳でデビューをすると、たちまちのうちにトップアイドルに昇りつめた。

その後、ロックバンドを結成し、またミュージカルの舞台にも活躍の場を広げるなど、息つくまもないほどにその才能を開花させ活躍し続けている。

そんな中、2004年12月に体調の異変を感じると、1月には急性骨髄性白血病と診断され入院することになるのだが、おそらくこれが、デビュー後に初めて訪れた“長期休暇”だったのではないだろうか。

そして亡くなる3ヶ月ほど前の7月30日、誕生日に合わせて一時退院を許可された時に歌ったのが、アメイジング・グレイスだった。

Amazing grace,how sweet the sound
(大いなる神の恵み、なんと甘美な響きだろう)

That saved a wretch like me
(私のような哀れな者ですら、救って下さった)

I once was lost,but now I'm found
(道を見失いさまよっていた私を導いて下さった)

Was blind,but now I see
(以前は闇をさまよっていたが、今の私にはハッキリと見える)

本田美奈子.さん
本田美奈子.さん=朝日新聞社

彼女はきっと、久しぶりにゆっくりと過ごす時間の中で、「家族との愛」を噛みしめ、見つめ直していたのではないだろうか。

そして家族への感謝、周囲への感謝、幸せな時間に対する感謝の想いをこの歌に乗せたのだと、今は思っている。

彼女の歌声を聴いた担当医は、この時のことを後にこう表現している。

「私は普段あまり歌を聴かないので歌のうまい下手はよく分かりませんが、あれほど心のこもった歌を聴いたことはありませんでした。これからも、あのような歌を聴くことはないと思います」

そして2005年11月6日、大好きな家族に見送られながら、短くも充実した力一杯の人生を全うした。

松井新二郎氏と糸子氏、さらに本田美奈子.さんの人生は三者三様である。

しかし一つ共通していることがあるとすれば、それは「自分にできる精一杯のこと」で、「最期まで誰かのために」力を尽くしたことだ。

私たちはそれを、一般に「愛」や「優しさ」と表現する。

私たちは過去、2度の悲惨な世界大戦を通し、「愛」や「優しさ」が生きる上で何よりも大事であるという知恵を、獲得した。

そしてそれが失われようとした時、取り戻す努力を惜しまないことを、お互いに約束した。

にもかかわらず、この価値観に挑戦しようとする人物が、21世紀になって再び現れ、私たちの世界を壊そうとしている。

力によって家族を引き裂き、命に対して銃口を向けよと命令するリーダーが、時代を100年前に戻そうとしている。

この状況で私たちは今、現実を直視せずニセモノの希望にすがり、何も行動を起こさないのか。

勇気と誇りを胸に、床に叩きつけた点字版を拾い上げ現実に立ち向かうのか。

松井新二郎氏、糸子氏、本田美奈子.さんの人生からのギフトが示すものは明白である。

「自分にできる精一杯のこと」で、「取り戻す努力を惜しまない」行動を起こさなければならない。

「愛」や「優しさ」はけっしてファンタジーではなく、暴力を上回る実在の力であることを、一人の暴君に知らしめるために。

世界のリーダーの決断が、そして私たち一人ひとりの思いと行動が、ウクライナの人たちに届くことを、心から願っている。

本田美奈子さん.
本田美奈子さん.=2003年11月、時津剛撮影