『置かれた場所で咲きなさい』という、累計200万部の国民的ベストセラーになった1冊の本がある。
修道女でもある故・渡辺和子さんが2012年に著した作品で、宣教師から渡された
「Bloom where God has planted you(神が植えたところで咲きなさい)」
というメモに救われた体験を元にした、自叙伝的なエッセイである。
” 置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです”
という印象的な言葉とともに紡がれる文章は美しく、多くの悩める人を勇気づけたのだろう。
ネット上での書籍レビューは概ね高評価で、多くの人に愛される理由の一端を垣間見ることができる。
しかし私は、誰かをエンカレッジする時に正直、この言葉をとても使う気にはなれない。
さらにいえば、この言葉は無責任であり卑怯であるとすら思っている。
国民的な大ベストセラー相手に異論を投げかけるなど我ながらいい度胸だと思うが、以下少しお付き合い願いたい。
”採用詐欺”
話は変わるが、私はかつて地方の中堅メーカーで、経営の立て直しに携わっていたことがある。
債務超過に陥り、キャッシュフローベースでも出血が続く、時間の問題で法的整理が視野に入っているような会社だ。
売れるものはすべて売り、また金融機関にはリスケ(債務の繰り延べ)を申し入れ、大株主には資本援助を依頼するなど、とにかく資金手当に奔走するのが役割のような仕事である。
そんな中、規模は縮小してでも新卒採用だけは続けることを決めた時のこと。10名ほどの採用枠に、最終の役員面接まで20名ほどが残っていただろうか。
候補者は皆が優秀で、そのことは書類上からも十分にうかがい知ることができた。
そして特に目を引く一人の女性がいた。
その女性はいわゆる“一流”の国立大学を卒業見込みで、成績も最上位の評価ばかりが並ぶ。
海外留学経験にTOEIC900点、中国語もビジネスレベルで話せるなど、“地方の中堅企業ていど”に応募してくるとは、とても想定できないような学生さんである。
そんなこともあり、彼女が入室すると私は一通りの書類確認を終えた後に、率直にこう切り出した。
「あなたの能力・成績は素晴らしいものだと、大変評価しています。逆に、ウチを志望して下さった理由がわからないほどです。弊社のどのようなところに、興味を持ってくださったのでしょうか」
すると彼女は、自社が保有する特許、事業展開予定を引用しながら、その際に語学力を生かしリーダー的なポジションを任されたいといったような、野心あふれる想いを語ってくれた。
さらに、大きな会社で小さな仕事から積み上げるほど気が長くないので、中堅クラスの会社で最初から大きな仕事を任されたいというような意欲も話してくれた。
なるほど、それらは自社の会社案内などで公開している情報であり、説明に矛盾はない。
しかし実はそれは、もう3年は前のものであった。
今となってはそれどころではなく、積極的な投資は全て中止し、まずは手段を選ばず出血を止めるのが最優先の局面に変わっている。
つまり、彼女のやりたい仕事や夢を実現できるフィールドは、当社にはもはや存在していないのである。
事業の立て直しがまだ見通せない中で、彼女が当社に入ればきっと「こんなはずじゃなかった」と、不幸になるだけだろう。
そう判断した私は結局、迷いに迷ったが彼女に内定を出さなかった。
すると驚いたのが、一つ前の面接を担当した管理職や、当然採用するであろうと思っていた経営トップである。
確かに、いろいろな能力に優れているであろう彼女がもし本当に当社に定着してくれたら、大きな戦力になったかもしれないので、当然の反応だ。
しかしもし彼女に内定を出し入社をしてくれていたとしても、程なくして退社を選んでいたことは目に見えている。
というよりも、「実現できない夢」をエサに入社をさせるなど”採用詐欺”というものであり、人としても会社としても間違っているというものだ。
しかしそれを説明しても理解してもらえると思わなかったので、私はただ一言、
「能力はあると思いますが、当社にふさわしい人材ではありません」
と、内定を出さなかった理由を皆に説明した。
「どうかお力を貸して下さい」
与えられた職責で決めたこととは言え、このような判断は批判されて当然のことであると、当時も今も思っている。
その上で私がこの判断をしたことには、実は伏線があった。
最終面接の、おそらく1週間ほど前だろうか。
中堅クラスの社員に会議室に呼び出され、こんな抗議を受けることがあった。
「なんでこんなに頑張っているのに、給料を減らされるんですか!」
実は私はこの時、経営立て直しの最終手段として、従業員の一律5%の給与カットを通知していた。
6カ月の時限的な措置ではあるが、これは本当に従業員の士気を崩壊寸前まで追い込む悪手である。
他に方法が無いとはいえ、これほどやるべきではない施策はないだろう。
十二分にわかってはいたが、ネガティブな反応は予想以上だった。
「お客様のために誠実に仕事をしているのに、納得できません…もう私、会社のために頑張れません…」
そういうと彼女は、大粒の涙をボロボロと流した。そして、仕事に責任が持てないので転職を考えているということも、素直に話してくれた。
私はそれに対し、反論ができなかった。
「今はどうか、耐えて下さい。必ず何とかしますので、私を信じて下さい」ということすら、言えなかった。
実はこの時、私の選択肢の中にはすでに、事業売却や会社全体の身売りも視野に入っていた。
であれば、その場しのぎで「今は耐えてほしい」「私を信じてほしい」などとは、とても言えなかったということだ。
彼女も、資格や経験をいかし転職したほうが、充実したキャリアを積むことができるだろう。
そのためただ、「本当に申し訳ございません。宜しければどうか、お力を貸して下さい」と、頭を下げることしかできなかった。
人として誠実であることと、企業の役員あるいはリーダーとして職務に忠実であることは、時に矛盾する。
その意味で、私のこの時の態度は役員として失格であったのかもしれないが、しかし同じ状況になれば何度でも、同じように行動するだろう。
「嘘をつかないこと」
「人として誠実であること」
はリーダーとして絶対に欠いてはならない最低限の品位であり、“信頼”を得る上で何よりも大事な守るべき価値観なのだから。
便所のネズミ
話は冒頭の、『置かれた場所で咲きなさい』についてだ。
なぜ私が、”置かれたところこそが、今のあなたの居場所です”などと口にすることは無責任であり、卑怯であるとまで思っているのか。
もし私が、自社では明らかに夢を叶えられないあの時の学生を採用し、その後、退職を悩み始めた彼女に対しこの言葉で説得をしようものなら、きっとぶん殴られていただろう。
転職を考えていると大粒の涙を流した社員に、「置かれた場所で咲きなさい」などと説教したら、「お前が言うな!!」と、お茶をぶっ掛けられていたかもしれない。
つまりこの言葉は、「相手の人生に対して、責任がない人」しか使ってはいけない言葉ということである。
言い換えれば、「問題の解決を、本人の意識・考え方に丸投げする言葉」と言っても良いかもしれない。
唯一、この言葉を本当に相手の心に届けられる人がいるとすれば、それは渡辺和子さんがそうであったように宗教家や学校の先生など、道徳的な指導を期待されている人に限られる。
少なくとも、企業経営者やリーダーが部下に使えば、それは精神論であり、問題のすり替えにほかならないだろう。
だから私は、この言葉を無責任であり卑怯であると思っているということだ。
最後に、こんな話がある。
秦の始皇帝に仕え、その天下統一を補佐した李斯は元々、田舎の小役人であった。
そして「自分はこのまま、こんなつまらない人生を過ごしても良いのか」と悩んでいたある日、便所の片隅で人に怯えながら汚物を食べ生きる痩せネズミを見かけ、嘆息した。
「俺もこのネズミのような、つまらない存在だ」と。
またある日、穀倉の中でもネズミを見かけるのだが、そのネズミはあり余る穀物を食べて肥え太り、人間の姿にも全く怯えることがなかったそうだ。
その姿を見た時に、彼は悟った。
「人生もネズミの生き方も、生きる場所次第ではないか」と。
そして彼は一念発起し勉学に励み、始皇帝に見い出され、歴史に名を残す大人物になっていくことになる。
もし彼が、“生きる場所”を変える努力をしなければきっと、田舎の小役人のまま、悲嘆の中で一生を終えていただろう。
「石の上にも三年」
「置かれた場所で咲きなさい」
といった価値観が尊いことは、論を俟たない。どんなことでも、自分の力が及ぶ限り努力し、必死になって喰らいついていくべきだろう。
しかしその上でどうにもならなければ、李斯のように生き方や環境を変えてしまうことも、決して迷うべきではない。
人生をやり直し、新たなチャレンジに踏み出すことは決して逃げることではないのだから。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を重く感じたら、きっと心が疲れているはずだ。
そんな時にはぜひ「便所のネズミ」の話も思い出して、人生でベターな選択をする参考にして欲しいと願っている。