私には少し、不思議な記憶がある。
もう40年ほども前の話だが、小学6年生だった時のことだ。
私が通っていた学校では、4年生以上の子どもにはクラブ活動に参加する義務が課せられていた。
といっても、2週間に1回だけ開催される他学年との交流が目的の場なので、本格的なものではない。
そのため余り深く考えず、私は漫画クラブを選んだ。皆でマンガを読み、自作マンガを描いて読み合うような、のんびりとしたクラブである。
そしてクラブ初日、部長を決める会議が開かれた時のこと。
当然のことながら、“年齢が絶対”の昭和の小学校では6年生から部長を選ぶのが鉄の空気だ。
にもかかわらず、6年生でリーダー格の梅本くんに加え、無謀にも4年生の竹野くんまでが部長選に立候補してしまう。
そして投票の結果、なぜか竹野くんの方が当選してしまった。
当然、上級生である梅本くんは悔しく、おもしろくなかったのだろう。
彼は上級生風をふかせて竹野くんに嫌がらせのようなことまでしてしまい、とてもギスギスした空気でクラブはスタートすることになる。
ところがである。
1年後のクラブ活動最後の日、竹野くんがクラブの終了を宣言すると、梅本くんが立ち上がり、
「おいみんな!最後に竹野を胴上げしようぜ!」
と言うやいなや、メンバー20名余りが黒板に殺到し、竹野くんを持ち上げ3回、5回と天井に向かって胴上げを始めてしまった。
さらに別のメンバーが手作りの記念品を渡し、彼のリーダーシップにメンバー全員でお礼を伝えるというサプライズまで起きてしまう。
胴上げされ、プレゼントを貰った竹野くんは感動のあまり号泣し、とても思い出深い解散の日になった。
しかしいったいなぜ、私たちは竹野くんにあんなことをしたのか。
なぜ、自然発生的に胴上げまでするほど、下級生である彼のリーダーシップをメンバー全員が認めたのだろうか。
ずいぶんと昔のことでとっくに記憶から消え去っていたのだが、最近ふと、クリアに思い出す出来事があった。
「全ての責任は俺が取る」
話は変わるが、「児玉源太郎」という名前を聞いて、どのような人物か語れる人はあまり多くないのではないだろうか。
1904年から1905年にかけてあった日露戦争において、日本陸軍の総参謀長を務めた人物であり、司令官である大山巌を支え日本を勝利に導いた最高幹部の一人だ。
現実主義的な作戦を立案し、なおかつ敵の意表をつく攻撃でロシアを混乱させるなど、本来であれば近現代史の教科書に、いちばんに名前が出てくるべき人物である。
そんな児玉が実施した作戦の中で、特に世界を驚かせたのが日露最後の大会戦、奉天会戦の際の用兵であった。
この際、日本陸軍の兵力は史料によってバラツキはあるものの概ね20~25万、対するロシア軍は35万~40万である。ロシアの数的優位は決定的で、日本の2倍近い勢力だ。
そしてそんな中で会戦が始まると、児玉はなにを思ったかロシア軍にいきなり包囲戦を仕掛け、左右だけでなく後方にまで回り込み、攻撃を開始してしまう。
しかしこのような戦い方は通常、数で相手を圧倒する方が選ぶ作戦であり、メチャメチャである。
軍事知識が無い方でも容易に想像がつくと思うが、数が少ない方の軍勢が広く分散し、数に勝る敵軍を包囲しようとすると、どうなるか。
薄い紙で敵を包囲したところで容易に寸断され、後は孤立した部隊を個別に殲滅されるに決まっているではないか。
3人で6人の敵を包囲しようと広がったところで、逆に1人が2人に囲まれて潰されるということである。
にもかかわらず、日本はこの奉天会戦に勝利し、ロシア軍は敗走する。
史料によっていくつかの解釈はあるものの、日本軍の非常識な作戦にロシア軍司令官・クロパトキン大将が戦況を誤認したというのが今日、一般的な解説になっていると言ってよいだろう。
俗っぽい言い方をすれば、「日本軍のハッタリにビビって」しまい、潰走したということである。
しかし冷静に考えて、これはそれほど単純化して良い話であるはずがない。なぜか。
「普通なら、ハッタリなど通用しない」
「普通なら、非常識な作戦は実施されない」
「普通なら、失敗が確実な作戦は失敗する」
「普通なら、ムチャな命令は士気が崩壊して戦いにならない」
のである。
にもかかわらず何故、この「普通なら」を全て覆し、勝つことができたのか。
そのヒントになる、こんなエピソードがある。
まだ43歳、陸軍少将であった若き日の児玉は日清戦争の時、中国大陸から戻ってくる帰還兵の検疫責任者を任されたことがある。
大陸から帰国する二十数万もの将兵を港に留め置き、日本国内に感染症を持ち込ませないために必要な検査を行う事業責任者だ。
しかしながら、凱旋勝利を果たし鼻息も荒く帰国した将兵は、検疫所に何日も何週間も留め置かれることを強烈に拒んだ。
そこで児玉は、現場責任者に抜擢した後藤新平に対し、こんな命令を下す。
「苦情は全て、俺が受け止める。責任も全て、俺が取る。お前は国内に感染症を持ち込ませないために、やるべきことを徹底的にやれ」
その児玉の言葉を信じ、後藤は検疫の現場でどれほど階級が上の軍人や役人から脅されても、決して妥協しなかった。一人の例外もなくルールを徹底し、二十数万人もの大検疫事業を徹底してやり遂げることにのみ、集中した。
そして検疫事業が終わった日、離任の挨拶に訪れた後藤に対し児玉はこう告げる。
「これはお前の勲章だ。誇りに思え」
そこにあったのは、大きな箱から溢れんばかりの手紙の山である。
上官である児玉に対し、後藤を罷免するよう求めるもの、後藤を激しく攻撃するものなど、苛烈な怒りに満ちたものばかりであったそうだ。
その全てを児玉は一人で受け止め、そして後藤を守り続けたということである。
想像して欲しいのだが、こんな上司が自分にいてくれたら、どれだけ心強いだろう。
すべての責任は自分が取ると宣言し、部下には「やるべきことをやれ」と、シンプルに求める。
そしてどれほどの“偉い人”から脅されても、部下のために体を張り、筋を通すのである。
そんな上司であれば心から心酔し、信じてついていけるのではないだろうか。
そして日露戦争の時、そんな児玉が総参謀長として陸軍全体の作戦指導を担うことになった。
きっとこの時も、彼は各部隊・指揮官に対しこう言ったのだろう。
「全ての責任は俺が取る。やるべきことをやれ」と。
自分の上司を心から信じられる組織というものは、本当に強い。
命令に従うことに迷いがなく、やるべきことに安心して、全員が全力で集中できるのだから。
このように児玉を信じ、勝つことを信じて突き進む日本軍の勢いはそれこそ、
「これが数に劣る軍勢の士気であり、動きであるはずがない」
と、ロシア側を誤認させるのに十分であっただろう。
このようにして「ムチャな作戦」は「現実的な作戦」に変わり、「ハッタリ」は「現実的な恐怖」になって、ロシアを潰走させた。
日露戦争における日本の勝利は奇跡でもなんでもなく、「組織とは、リーダーによってここまで変わることができる」ことを証明した、歴史から学ぶべき大いなる教訓ということである。
これは”他山の石”ではない
そして話は冒頭の、竹野くんについてだ。
なぜ最後の日、上級生は下級生である彼を胴上げまでして、そのリーダーシップを認めたのか。
すっかり忘れていたのだが、当時こんな出来事があった。
漫画クラブとは言え、やはり小学校なので持ち込んでいいのは学習マンガや、ギリギリでドラえもんなどの、保護者も認めるような作品だけという不文律があった。
しかし自作マンガを描くにあたり、部員の中からもっと俗っぽいギャグ漫画や、「少年ジャンプ」なども持ち込み、参考にして模倣したいという意見が出る。
そして皆で議論した結果、次のクラブの時にはそれらを持ち込んで自作マンガの参考にしようということになった。
しかしクラブ当日、これが巡回の先生に見つかり、大問題になってしまう。
「こんなマンガを持ち込むなんて、聞いていない」
これに対し、竹野くんが一人立ち上がり返事をする。
「僕の責任です。どこに行って、誰に謝ればいいでしょうか」
その場にいた全員が、驚いた。
竹野くんは誰の発案であるとも、皆で決めたことであるとも、言い訳しない。
ただ、責任を取って必要なことをすると申告し、リーダーとしてこれ以上はないカッコイイところを見せた。
思えば彼は、普段から皆で議論することを大事にし、公正で納得の行くリーダーシップを発揮していたように思う。
他人の作品を貶すことは厳禁し、良いところを褒め合う「ブレーンストーミング」のような約束事まで決め、徹底していたように記憶している。
そんな彼に、最後の日に皆から胴上げされるサプライズがあったのも、当然のことだったのだろう。
彼は間違いなく、私たちにとって誇るべきリーダーであった。
そして話は今、目の前で起きている戦争についてである。
120年前の日露戦争の時も今も、ロシア軍はその装備・兵力にもかかわらず、驚くほどに弱い。
プーチン大統領に至っては、大佐レベル(連隊長クラス)の現場指導にまで直接指示を出していると報じられるほどの、デタラメぶりだ。
言い換えれば、現場の指揮官・将校が「責任を託される誇り」すら、奪われているということである。
そんな曖昧な状況では、責任の裏付けがないリーダーが指揮を執ることになり、まともに戦えるはずがないだろう。
リーダーたちが文字通り無責任で頼ることができないのだから、弱くて当然である。
小学4年生の竹野くんにすら劣るリーダーたちが率いる部隊など、軍事組織ではなくただのゴロツキの集団ということだ。
しかしこれを単純に、「だからロシアは弱い」などという教訓にするわけにはいかないだろう。
今の日本に、果たしてどれだけの「児玉源太郎」や「竹野くん」がいるだろうか。
組織で働くどれだけのビジネスパーソンが上司を信じ、敬愛できているだろうか。
これは決して”他山の石”などではない。
今のロシアの体たらくはそのまま、日本の経営者・リーダーたちに対する警告として私たちは、捉える必要があるのかもしれない。