いきなりの不謹慎な話で恐縮だが、私は人生で一度だけ、人を本気でぶっ殺したいと思ったことがある。
30代の半ば頃で、地方の中堅メーカーでCFO(最高財務責任者)をしていた時のことだ。
私に期待されていた同社での役割は、経営不振に陥っていた事業の立て直しだった。
そして6年ほどの再建期間を経て、会社をM&Aマーケットに出した時のこと。
当初、2億円でも売れなかった会社をビッド(入札)にかけ交渉を重ねた私は、A社から10億円の、B社から5億円の応札を引き出すことに成功する。
当然のこと、A社を最終候補に決めると渋谷の本社に経営トップとともに出向き、最終的な合意が成立した。
「本日はありがとうございました。来週末にはこちらから大阪にご挨拶返しに行きます。その時に捺印した契約書もお持ちしますね」
「ありがとうございます。ではそのまま、夜は一席ご用意させて下さい」
「いいですね、楽しみにしています!」
そんな和やかな会話の中で全ての交渉が終わり、心地よい疲れの中で東京駅に向かう。
そして金曜日の最終で混み合うのぞみに乗ると、経営トップは冷えたビールとつまみを袋から取り出しながらこんな事を言った。
「桃ちゃんのおかげで、なんとかいい形で会社も俺もイグジット(出口に到達)できた。本当にありがとう」
この時の缶ビールは、人生で飲んだどんな酒よりも最高に美味かった。
大きな、そしていい仕事ができた自分にも、私は心から満足していた。
6年も掛かってしまったが、ストレスフルな仕事もいよいよ終わりかと緊張の糸が切れ、思わず涙ぐんでしまったことを今も良く覚えている。
そして私はデッキに出ると、その場でB社に正式に、交渉打ち切りの電話を入れた。
しかし翌月曜日、会社に行き経営トップから呼び出された私は、思いがけないことを告げられる。
「桃ちゃんごめん…!やっぱりB社を選ぶことにした、A社に断りの連絡を入れてくれ!」
「は…?何を言ってるんですか社長。口頭とはいえ、経営トップ同士で合意し法的拘束力もあるんですよ?」
「桃ちゃんには悪いと思ってるけど、そこを何とかするのが君の仕事やろ頼む!」
「社長、考え直して下さい。相手は一部上場企業で、財務・法務も総出で積み上げ、トップ同士で最終合意したんです。そんなもん通るわけないでしょう」
「ええからなんとかしてくれ!もう決めたんや!」
経営トップは結局、どれだけ説得しても私の言葉に耳を傾けなかった。
そして本当に私は、今度はA社に交渉打ち切りの電話を入れ、謝罪のため一人で渋谷に向かうことになったのである。
その時、東京行きの新幹線に放心状態で座りながら、私は本気で思った。
「あの野郎、マジでぶっ殺してえ」と。
しかしそれから20年近くの時間が経った今、私は当時のことを全く違う形で振り返っている。
「あの失敗は、自分の責任だった。恨まれるのはむしろ、自分の方だ」と。
”世界最強”はなぜ敗れたのか
話は変わるが、近現代史に詳しい人であれば誰もが、ミッドウェー海戦における日本の大敗には不思議な、あるいは複雑な思いを持っているのではないだろうか。
太平洋戦争の開戦から半年後、1942年6月に戦われたこの海戦では、日米両海軍の主力が正面から激突した。
そして日本は、この戦いで参加空母4隻全てが撃沈されるという、歴史的にも類がないほどの惨敗を喫している。
これ以降、日本は太平洋における戦いの主導権を失い、敗戦に向け坂を転がるように墜ちていくことになるのは、ご存知のとおりだ。
しかし実はこの戦い直前、客観的な戦力比で日本海軍は、圧倒的に優勢な状況にあった。
それどころか、当時の日本は瞬間的に、世界最強の空母機動部隊を擁していたといっても過言ではないだろう。
実際に、この戦いで指揮を執った米海軍のニミッツ提督は、日本軍の暗号を解読しその戦力・作戦の全容を把握した時のことを、後日こう振り返っている。
「それは不可避な惨事を事前に知ったようなものであった」(中央文庫:失敗の本質p78)
にもかかわらず、結果は日本海軍の一方的な惨敗に終わった。なぜか。
この戦闘は日本海軍が仕掛け生起したものだが、その目的は米軍のミッドウェー基地に攻撃を加えることで、米空母の誘出を図るものだった。
地図をご覧頂ければ明らかだが、ミッドウェー島が落ちれば米太平洋艦隊の本拠地であるハワイは外堀を埋められる形になり、危機に陥る。
そのため日本が同島を攻撃すれば、米海軍は空母を含め全力で反攻に出てくるに違いない。
そこを、戦力で上回る海軍主力で叩き殲滅をすれば米国は継戦の意志を失い、日本に有利な条件で講和を結べるのではないか。
それが日本海軍の立てたシナリオだった。
結果としてこの作戦で、米海軍は空母を含む太平洋艦隊の主力を釣り出されたので、日本の戦略そのものは正しかったといって良いだろう。
このようにして日本海軍は、ミッドウェー島への攻撃を開始し、米空母の誘い出しを図る。
するとまさにその瞬間、予期していなかったタイミングで空母を含む米海軍主力が現れたのである。
親熊はいないと思い込み、目の前の子グマを小突き始めたら、背後に立っていたような形だ。
しかしながら、ミッドウェー基地攻撃用の兵装と敵艦隊攻撃用の兵装は全く異なるため、攻撃目標の即時変更などできるものではない。
そのため日本海軍の攻撃隊指揮官・南雲忠一中将は急ぎ武器の換装を命じるのだが、時すでに遅しであった。
作戦の変更に伴う混乱で反撃能力を失っている日本空母に、米軍の空母を飛び立った艦載機が先制攻撃を仕掛け、次々に襲いかかってしまったのである。
そして甲板上に爆弾や魚雷などが無秩序に散らかっていた日本軍の空母は、敵の爆弾が一発命中しただけでも次々に大爆発を起こし、轟沈していった。
このようにして、日本海軍主力はあっけないほど一瞬で消滅し、熟練パイロット多数とともに戦争の主導権を失うことになったのである。
いったいなぜ、こんな事が起きてしまったのだろうか。
その原因の一つを、戦史の名著として知られる「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一、野中郁次郎他共著)では、以下のように分析している。
「目的の単一化とそれに対する兵力の集中は作戦の基本であり、反対に目的が複数あり、そのため兵力が分散されるような状況はそれ自体で敗戦の条件になる」
要するに、日本海軍の戦略目標はミッドウェー島だったのか、それとも米海軍の空母だったのか、組織の意志統一が全くできていなかったということである。
この作戦の本来の目的は、米海軍の空母を中心とする主力の誘い出しと殲滅であった。
にもかかわらず、本末転倒にも日本の空母機動部隊はミッドウェー島にほぼ全ての戦力を投じ、攻撃を開始してしまった。
そこを米空母群に襲われたのだから、全滅して当然であろう。
敵将・ニミッツ提督はこれを「dual purpose(二重の目的)」と表現したが、戦術・戦闘において最悪とされる、軍事上の禁忌の一つだ。
どれほど優れた兵士と装備を準備しても、曖昧な目的と作戦で戦うと、組織はこれほどにあっけなく崩壊してしまう。
そんなことを改めて証明してしまった、取り返しようがない日本海軍の敗戦であった。
結局、誰のせいで敗れたのか
話は冒頭の、M&Aの話についてだ。
正式に合意をした契約をちゃぶ台返しするような経営トップの暴挙について、なぜ私は今、自分の責任だと感じているのか。
金曜日の夜、新幹線からB社に交渉打ち切りの電話を入れた私は、それで全ての仕事が終わったと思っていた。
しかし翌日の土曜日、実はB社の経営トップが急遽大阪まで来て当社の経営トップを訪問すると、こんなことを約束する一幕があったことを、後日知ることになる。
「社長、A社に売却したらあなたは会長に祭り上げられて終わりなんですよ。本当にそれでいいのですか?」
「ウチに売却してくれるなら、次の社長も息子さんにすることを約束します。一緒に頑張りましょう!」
嘘のように思われるだろうが、経営トップが翻意したのはたったこれだけの囁きによるものであった。
このようにして、10億円を提示したA社ではなく、5億円を提示したB社に会社を身売りすることが、本当に決まってしまったのである。
私はこの時、自社の経営トップの本心を全く見抜けていなかった。
彼にとっての戦略目標は、少しでも高く株を売ることで、穏やかに引退することだと思いこんでしまっていた。
しかし彼にとってそれは次善の策であり、最善はなんとかして社長であり続けることであって、願わくば自分が育てた会社を息子に継いでもらうことだったのである。
その後、程なくして私は同社を去ったが、無意味な口約束の多くが当然のように反故にされたことを、風の便りで聞いている。
私と経営トップは、戦略的な優先順位を曖昧に共有したまま作戦を進め、取り返しのつかない敗戦で社長自身を含め、多くの株主に多大な損失を与えてしまったということだ。
そして話は、ミッドウェー海戦についてだ。
先述のようにこの戦いでは、作戦を立案した連合艦隊司令部の戦略目標が、作戦の実行部隊である攻撃隊に曖昧な形でしか伝わっていなかった。
もし正しく共有されていたら、ミッドウェー島に全戦力を投じるような戦い方など到底、選択されていなかっただろう。
そうなれば、この戦いはニミッツ提督が予想したように、米軍にとってこそ悲惨な結果に終わっていたのかも知れない。
戦略を立案した山本五十六・連合艦隊司令長官、攻撃を指揮した南雲忠一・中将のどちらが悪いというものではない。
どちらも同じ重さで、敗戦に対し責任を負うべきリーダーである。
同様にもしあの時、私自身に僅かでも、創業経営者の心根や心情に思いを馳せるような人間力があれば、きっと経営トップにこう聞いていただろう。
「社長。A社への売却に際し最後に、個人的になにか付け足したい条件はありませんか?」と。
その程度のことさえできていれば、結果は全く違うものになっていたはずだ。
経営トップも私も同じ重さで、敗戦に対し責任を負うべきリーダーだったということである。
それにしても、ドイツ初代宰相のビスマルクは、
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と喝破したそうだが、本当にそんな賢者などいるのだろうか。
私はいつまで経っても、失敗の経験から学んだことを振り返ってみたら、歴史上に同じような教訓が転がっていることに後から気がつくことばかりだ。
この分だと、賢者になることは一生かかっても、無理そうである。