1944年8月25日、パリを防衛するドイツ軍司令官が降伏文書に署名し、パリは解放された。連合国軍の仏ノルマンディー上陸から2カ月余のことだったが、英米などは当初、ドイツ軍撃滅を最優先し、パリを迂回しようとしていた。しかし、早期解放を求めるシャルル・ドゴール将軍の働きかけと、パリ市内でストライキや一斉蜂起が始まったことから、早い時期でのパリ解放が実現した。
だが、ドゴール将軍やアイゼンハワー米大統領やチャーチル英首相らとの人間関係の摩擦があったほか、「連合国軍は一度はパリを見捨てた」という思いが残った。ドゴールは1958年、政権を奪取して第5共和政を始め、「ゴーリズム」と呼ばれるドゴール主義による独自外交を始めた。フランスが中東や中国などの問題で、常に英米と一定の距離を置く背景には、こうした過去の記憶がある。
最近は移民問題の影響から、極右の国民戦線などが伸長し、フランスがまたその姿を変える岐路に立たされているのかもしれない。それでも、とりあえず、パリっ子たちは、100年ぶりの夏季五輪開催に加え、80年前の記憶も重ね、夏季五輪を自分たちのアイデンティティーを確認する場にすることだろう。
一方、パリ五輪には、日中韓に加え、新型コロナウイルスの感染拡大防止を理由に2021年の東京大会をボイコットした北朝鮮も8年ぶりに復帰する。この東アジア4カ国は「国威発揚」という点で、「勝ち組」の日中韓と「負け組」の北朝鮮に色分けされてきた。
1964年東京大会はアジア初の五輪開催として、日本の戦後復興の象徴として位置付けられた。
1988年ソウル大会は、戦後に建国された国家として初の五輪開催となった。前年の民主化宣言によって約30年続いた軍事政権が終わることとなり、「韓国が大きく変化し、世界に近づいた時代」の象徴として、韓国の人々は今でも「パルパル(88)五輪」と呼び、親しむ。2015年には、五輪に沸く1988年当時のソウルを舞台にしたラブコメ「恋のスケッチ〜応答せよ1988〜」が公開され、人気を博した。
2008年北京大会も、中国の人々が自信をつけた大会だったと位置づけられる。中国政府は五輪後、南シナ海や東シナ海などで、急激に強硬路線に転じて行った。日本の専門家の一人は「北京五輪と、リーマン・ショックからのいち早い回復が、中国の人々に自信を受け付け、さらに国威発揚を求めて強硬な路線に走ることになった」と指摘する。
一方、五輪で踏んだり蹴ったりなのが北朝鮮だ。
金日成主席のフランス語通訳だった高英煥(コヨンファン)氏の著書「平壌25時:北朝鮮亡命高官の告白」(徳間文庫)には、北朝鮮がソウル五輪の邪魔をしようと悪戦苦闘した話が出てくる。
当初は南北共催を提案した北朝鮮だが、これが決裂すると、ソウル五輪への参加国を減らし、韓国の威信を傷つけるため、アフリカ諸国を回ってボイコットを持ち掛けたという。当時、北朝鮮と親しいと言われていたタンザニア、ザンビア、ジンバブエ、マダガスカル、セーシェル、ウガンダ、モザンビークなどに働きかけることになった。しかし、訪問国のうち、結果的に不参加だったのは、もともと選手団派遣を予定していなかったマダガスカルとセーシェルだけだった。マダガスカルの場合、逆にコメ1万トンとセメント2万トンの無償支援を持ちかけられる結果になった。
ソウル五輪に不参加だったのは、このほか、キューバ、アルバニア、ニカラグア、エチオピアを加えた社会主義諸国やその周辺国7カ国にとどまった。北朝鮮は対抗措置として1989年に世界学生青年祭典を開いたが、巨額の予算を投入したため、国家経済が破綻する一因をつくった。
北朝鮮の金正恩総書記は2023年末、韓国との平和統一を放棄し、「敵対的な二国関係」と定義する新政策を打ち出した。
パリ五輪では、レスリングや卓球、ボクシングなどの対戦競技で、韓国と北朝鮮がぶつかる可能性がある。また、韓国と北朝鮮の選手が表彰式などで同席する機会もあるだろう。北朝鮮選手はおそらく、極力韓国の選手を無視しようとするだろう。ほかにも中東情勢やロシアによるウクライナ侵攻など、世界を覆う暗い話題があちこちにあふれている。
パリ五輪では、「五輪は平和の祭典」という言葉を感じられる機会はほとんど訪れないかもしれない。