■平和という「大義名分」
ホワイトハウスのサキ報道官は外交的ボイコットの理由について「米外交団や公式代表団を派遣すれば、新疆での深刻な人権侵害と残虐行為に直面するなか、北京五輪を通常の大会として扱うことになる」と述べた。米国務省は2020年の人権報告書で、中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル族ら少数民族に対する「ジェノサイドと人道に対する罪」を犯していると明記し、バイデン政権も「ジェノサイド」と認定している。
米国はカーター政権当時の1980年、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由にモスクワ五輪に選手団を派遣しなかった。日本や西ドイツ、中国などが同調する一方、英仏豪などは選手団を派遣した。ソ連や東欧諸国などは報復措置として84年のロサンゼルス五輪をボイコットした。
五輪は「平和とスポーツの祭典」をうたう一方、政治の影響を常に受けてきた。ナチス・ドイツや旧ソ連・東欧諸国などは、五輪を国威発揚の場として利用してきた。
政府関係者の一人は「巨額の税金を投入する以上、政治は無関係ではいられない」と語る。今年開かれた東京大会の場合、9月時点での大会経費は1兆6440億円。都、国、大会組織委員会の3者が負担する。無観客開催による人件費減などで最終的にはこれを下回る見通しだが、2013年招致時の見積もりから倍増している。
吹浦さんは、政治が五輪に口を出す背景について「1936年のベルリン五輪で、世界の指導者は皆、五輪が政治に利用できる事実を知った」と語る。五輪憲章は「平和でよりよい世界の建設に貢献する」とうたっている。吹浦さんは「平和という大義名分が、逆に政治や政治運動に関わる人たちに五輪は政治に利用できると気付かせた」と語る。
2018年の韓国・平昌冬季五輪では文在寅政権が「朝鮮半島に平和が来た」とアピール。ボイコット騒ぎはなかったが、急きょ、女子アイスホッケーで南北統一チームを編成することにしたため、韓国内で五輪出場ができなくなった韓国選手への同情論や政府への批判が広がった。
国家だけが五輪に政治を持ち込んだわけではない。吹浦さんによれば、国際オリンピック委員会(IOC)も政治化している。バッハ会長は平昌五輪で南北和平を積極的に支持した。吹浦さんは「IOCには国際赤十字と比べて、平和に貢献している自分たちはノーベル平和賞にふさわしいと考えている人々がいる」と語る。
■巨大化した五輪「怪獣になった」
吹浦さんは、巨大化した五輪について「オリンピックは怪獣になった」と語る。競技施設や交通システムなどを準備できる都市は数えるほどで、IOCは開催地の意向に迎合する傾向がある。五輪を開催する力がない国々は「五輪に選手を送ることができてこそ、一人前の国として認めてもらえる」という気持ちがあるため、IOCの意向に従うなど、なれ合いになる傾向があるという。
1968年のメキシコ五輪、陸上男子200メートルの表彰式で、黒人選手2人が人種差別に抗議し、うつむいたまま革手袋の拳を突き上げた。1972年の西ドイツ・ミュンヘン大会では、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手団の宿舎を襲撃するテロ事件を起こした。
吹浦さんは「五輪は、テレビなどを通じ、世界40億の人々にアピールできるまれな媒体。政治家にも少数派にも格好の舞台になっている」と語る。吹浦さんは今年開かれた東京大会でも、選手や観客の一部が、新疆ウイグルや香港などの問題をアピールするのではないかと懸念していたという。「原則無観客になったため、何も起きなかった。でも、狭い通路の国立競技場で突然、政治的なアピールをされても、すぐに制止できないし、そもそも取り締まる法律もない」と話す。
日本は五輪の機会にどんな経験をしてきたのだろうか。1964年の東京大会で、日本は高度成長への弾みをつけた。吹浦さんは当時、日本人の誰もが東京大会に誇りを持っていたと振り返る。吹浦さんが五輪関係者だと知ると、食堂やタクシーの運転手らが皆、「がんばってください」と口をそろえて応援してくれたという。「1940年の五輪開催地返上や戦後の苦しい時代を思い、これから高度成長が始まるという時代だった」
逆に、モスクワ五輪ボイコットでは、派遣予定だった柔道の山下泰裕選手やレスリングの高田裕司選手ら246人(選手182人、役員64人)が「幻の代表団」になった。吹浦さんは「当時の日本オリンピック委員会は政治と密着しており、最初からボイコットありきだった。スポーツ団体は国の補助金に頼っていたため、選手は弱い存在で、気の毒だった。個人資格での参加など別の道を模索すべきだった」と話す。
今年の東京大会では、当時の菅義偉首相は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとなる大会にしたい」と繰り返した。それでも、世論は開催と不開催で割れた。吹浦さんは「国民の熱気は1964年大会とは比べものにならなかった」と語る。
岸田文雄首相は7日、米国の外交的ボイコットを巡る日本の対応について「オリンピックの意義ですとか、さらにはわが国の外交にとっての意義等を総合的に勘案し、国益の観点から自ら判断していきたいと思っています」と語った。
日本政府内では「中国も今年の東京大会で、予定していた孫春蘭副首相の派遣をキャンセルした。我々も閣僚級を送る必要はないだろう」(関係者)という声が広がっている。一方、札幌市は2030年冬季五輪の招致を目指しており、日本が外交的ボイコットに踏み切った場合の悪影響を憂慮する声もある。
吹浦さんは「各国が開会式に首脳や閣僚を送り込み、自分の国をアピールするようになったのは今世紀に入ってからのことだ。今回を契機に、五輪の政治利用をやめるべきだ」と語る。そのうえで日本の対応について「まず、米国に従ったという形を取るのは良くない。日本独自の判断として、中国駐在の日本大使だけが出席すれば良いのではないか」と語った。
ふきうら・ただまさ 世界の国旗・国歌研究協会共同代表。1964年の東京五輪組織委員会国旗担当専門職員。国際赤十字バングラデシュ・ベトナム各駐在代表、難民を助ける会副会長、長野冬季五輪組織委式典担当顧問などを務めた。現在、難民を助ける会特別顧問なども務める。著書に「国旗で読む世界史」(祥伝社)など。