「五輪貴族」の世界

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IOC臨時総会で東京招致を訴えた招致団/photo:Nishihata shiro

[Part1]三つの思惑が絡み合うパワーゲーム

IOC臨時総会で東京招致を訴えた招致団/photo:Nishihata shiro

7月上旬、IOC臨時総会が開かれたスイス・ローザンヌに、世界のスポーツセレブたちが集った。IOC委員たちが泊まる五つ星ホテルで繰り広げられるロビー活動は、夜のとばりがおりてからが本番だ。

2020年の五輪をどこで開催するか。東京招致委員会の専務理事、水野正人(70)は笑顔で入って来た。「しばらくだね」「元気だった?」。そんなあいさつを英語で交わし、握手とハグを繰り返す。あとから赤いネクタイ姿で統一したマドリード招致団の集団が続いた。

どの競技を五輪に入れるか。5カ国語に堪能な国際レスリング連盟会長のセルビア人、ネナド・ラロビッチ(54)は数人を捕まえてバーに腰を下ろした。

ボスは誰にするか。ロビー中央では、会長選に出馬している陸上男子棒高跳びの世界記録保持者、ウクライナのセルゲイ・ブブカ(49)が、胸の前で両手を合わせて懇願のポーズをとっているように見えた。

ウクライナのセルゲイ・ブブカ/photo:Nishihata shiro

いま、IOCを舞台に、三つの選挙活動が同時に進んでいる。まず、東京、マドリード、イスタンブールの3都市が争う2020年の開催地選び。次に、レスリング、野球・ソフトボール、スカッシュの3競技の中から、一つだけ20年大会で実施する競技を選ぶ。最後が会長選。候補はIOC委員の男性6人だ。三つの選挙とも9月上旬にアルゼンチン・ブエノスアイレスであるIOC総会で行われる。

「誰と、どのスポーツと、そしてどの都市と組めば有利なのか」。委員らは今、三つの選挙が生み出す複雑な方程式を、必死に解こうとしている。

水面下で票の駆け引き

メディアに囲まれるドイツのIOC委員トーマス・バッハ。会長選で本命視されている/photo:Nishihata shiro

例えば、日本人でただ1人のIOC委員、竹田恒和(65)から見るとこんなふうな構図だ。

会長選で本命視されるドイツのトーマス・バッハ(59)が当選したら、2024年の夏季五輪を欧州に持って来たがるだろう。その場合、20年は欧州から遠い都市を選びたいに違いない。だから、東京は招致を実現するために、バッハと手を結べるのではないか?

逆にアジアの候補者は、東京を応援しないのではないか。なぜなら欧州勢が主体のIOCが、開催地も新会長もアジアを選択するとは考えにくいからだ。レスリングと関係が深い委員は、この競技が盛んなイスタンブールか東京と組みたがるだろう──。

様々な見立てや臆測から、水面下で票の駆け引きが進む。

歴代会長8人のうち、欧州出身は7人。アジア出身はいない。シンガポール出身で第1副会長のセルミャン・ウン(64)は、温厚で敵をつくらない人柄から、バッハを追う一番手と目される。母国で最大手のスーパーマーケットチェーンを展開するウンは、「また欧州から選ばれたら、おかしい。君もそう思わないか?」と言い、アジア人で初めて頂点に立つ野心を隠さない。

呉経国/photo:Nishihata shiro

もう1人のアジア系候補、台湾の建築家で国際ボクシング協会長の呉経国(66)はこの春、中国・天津にIOC前会長の故フアン・アントニオ・サマランチをたたえる博物館を建て、落成式に多くの委員を招いた。21年間の長期政権を敷いた前会長に恩義を感じる委員は今も多く、1988年に委員になった呉もその一人。「最大の功労者を長年支えた私が、会長職の名誉を授かるのに一番ふさわしい」。何のためらいもなく、前会長の威光を借りることを宣言した。

7月4日、会長候補6人の立候補演説を聴いた竹田はこうつぶやいた。「本当は6票持っていれば一番良かったんだけどね」。五輪の開催地も、実施する競技も、トップに君臨する会長も選ぶ権利を持つIOC委員。104人は、いったいどんな人たちなのか。

(平井隆介)
(文中敬称略)

[Part2]王室、アスリート、メンバーは多彩

7月3、4日に開かれたIOC臨時総会に集まったIOC委員たち/photo:Nishihata shiro

IOC委員になると、どんな役目を担うのか。年1回の総会のほか、倫理、マーケティングなどの専門委員会のメンバーに指名されたら、定期的に会議に参加しなければならない。五輪などの大会視察も精力的にこなすと、日本のサラリーマンには両立は難しい。宿泊費、交通費、日当は出るが、原則は無報酬だ。

「五輪貴族」とも評される委員の顔ぶれは多彩だ。オランダ国王をはじめ、王室・王族関係者は10人以上いるし、政治家、弁護士もいる。近年はメダリストも増えている。自分たちで仲間を選ぶという特権的で閉鎖的な色彩を持つのが特徴だ。

創設者のクーベルタンがフランスの貴族出身だったことや、活動費は自腹だったこともあり、当初のメンバーは裕福な人々に限られた。草創期は、辞めていく委員が後継者を指名する習慣があり、一種の「世襲制度」もあった。

伝統的に王室関係者も多かった。6代目会長で、アイルランド出身のキラニン卿の自著によると、彼がIOC委員になった1952年には、国家元首1人、王子3人、大公1人、伯爵3人、さらに「閣下」の称号で呼ばれる人がたくさんいたという。

「当時はサマランチ会長が決めていたも同然でした」。そう述懐するのは、1982年に委員に就任した猪谷千春(82)だ。その年の4月、来日していたサマランチ会長と東京のホテルオークラで面談し、お墨付きを得て、5月に就任が決まった。

「私は独裁者ではない、オーケストラでいう指揮者のようなものだ」。猪谷は、サマランチがそう語るのを傍らで聞いていた。ただ、総会で自分が通したい議案を諮るとき、「では、反対の人は挙手を」とにらみを利かせて賛否を問う手法は、かなり独裁色が強かった。2001年夏、会長の座をおりる際、21年の在任期間中に選ばれた委員は全体の9割以上を占め、サマランチの威光は絶大だった。

オリンピック・ファミリー


1998年暮れに発覚したソルトレーク招致スキャンダルが、メンバーの決め方を大きく変えるきっかけになった。商業主義の扉が開かれ、五輪の経済効果を期待する各都市の招致活動が過熱すると、立候補都市からIOC委員への過度な接待が常態化していった。子どもの大学の学費負担や高額の資金提供など、巨大な利権をめぐる醜聞が噴き出し、10人の委員が追放・辞任に追い込まれた。

改革を求められたIOCは、委員の定年を80歳から70歳に引き下げた。任期も8年とし、再任は総会に諮ることも決めた。一時は130人程度に膨れあがった委員数の上限を115人にした。そのうち、70人枠の「個人資格」については、IOC委員らで構成する指名委員会がスポーツ界における業績などを審査して理事会に提案し、総会に諮るという手順を踏むことになった。

一方、「選手委員」「国内オリンピック委員会の代表」「国際競技連盟の代表」からそれぞれ最大15人を委員に加えることにした。IOCは五輪に協力してくれる団体を、親しみを込めて、「オリンピック・ファミリー」と呼ぶ。国際競技連盟や各国のオリンピック委員会の幹部を仲間に入れることは、民主的な組織運営を世論に訴えるには必要なことだった。

なかでも、選手代表を仲間に招き入れたのは、「選手本位」を強調するIOCが開かれた組織をアピールするのにもってこいの改革だった。7月3日のIOC臨時総会。初々しい笑顔のアスリートたちが会長のロゲとともに、写真に納まった。IOC委員の選手枠を争い、昨夏のロンドン五輪期間中にあった選挙を勝ち抜いた4人だ。トップ当選した射撃女子メダリストでスロバキアのダンカ・ベルテコバは28歳。最年少の委員だ。

06年以降に就任した委員39人の中でメダリストは、実に半数近くの16人に上る。

(稲垣康介)
(文中敬称略)

[Part3]五輪の懐を潤し、物語を紡ぐTVとの蜜月関係

IOC本部前にある銅像/photo:Nishihata shiro

IOCに今の経済的な繁栄をもたらした最大の功労者は、米国のテレビ局だといっても過言ではない。

「43億8000万ドル」。2011年6月、米テレビ界に激震が走った。2014年から20年までの夏冬4大会の米国内の放送権を手にするために、米4大ネットワークの一つ、NBCが提示した額に業界は驚いた。FOXの入札額は34億ドル、ESPNは2大会で14億ドルと、足元にも及ばなかった。

この巨額の落札劇は、IOCの財政基盤が少なくとも2020年まで安泰であることを保証するものでもあった。

「IOCの今の隆盛を見れば、想像がつかないかもしれないが、サマランチが会長に就任した1980年当初、IOCの金庫はカラに近かった。劇的に変えたのが、テレビマネーだ」。IOCの初代マーケティング部長で『オリンピックはなぜ、世界最大のイベントに成長したのか』の著者マイケル・ペインは語る。

88年カルガリー大会をめぐり、ABCが84年サラエボ大会の3倍以上という異常な高値で落札したのは、今も語り草。当時の3大ネットワークの熾烈な争奪戦が世界の相場を一気に引き上げた。

IOCは米国、欧州、中東、日本、南米など、各地域ごとの放送局と個別に放送権の交渉をしている。日本の五輪放送権交渉に長年携わってきた元NHKスポーツプロデューサー、杉山茂は「米国の契約額が一つの指標となり、それと連動して日本の金額も引き上げられていった」と解説する。

日本の放送収支は初の赤字


90年代以降も右肩上がりが続いた要因は何か。一つは、94年リレハンメル大会以降、夏と冬の大会を同じ年ではなく、今のように2年ごとに別々に開催する方針を決めたこと。「ABCの社長がサマランチとランチをしていたとき、同じ年に2大会分の資金を出すのは、放送局にはもう無理だと提案したのがきっかけだった」とペインは振り返る。

二つ目は複数大会の契約だ。1995年9月、NBCは2000年夏と02年冬という史上初の夏冬同時契約を12億5000万ドルで結び、3カ月後には、まだ開催都市すら決まっていない3大会に23億ドルという破格の契約金を払うことを決めた。

NBCは、夏季は1988年ソウル以来、冬季は2002年ソルトレーク以来のすべての大会を独占。ロンドン大会は2億人以上が視聴し、「米国史上、最も多くの人が見たイベント」と発表した。

NBCの売り物は選手たちを主人公にした物語性の高い番組作りだ。「普段はスポーツ中継を見ない女性の視聴者の共感も呼び、広告を出す企業が好む状況となった」。ABC、NBCのスタッフとして計14大会の五輪放送に携わった米ホフストラ大准教授、デニス・マゾッコは人気の要因をそう分析する。

テレビマネーの威光にひれ伏すように、国際競技連盟は五輪競技に残るために、放送に適した試合時間の短縮やルールを変更する傾向が強まっている。アジアで開催された1988年ソウル大会、2008年北京大会では、米国のゴールデンタイムにあわせて米国の人気競技の決勝が行われた。

ただ、五輪のテレビ放送権料が今後も安泰かについて、ペインは懐疑的だ。「放送権交渉のカギは、各局の競争だが、欧米の経済、広告事情を考えると、もう限界」という。

いち早く、黄信号がともったのが日本だ。日本の五輪放送は、NHKと民放が合同で放送権を購入するのが伝統だが、日本民間放送連盟は昨年9月、ロンドン五輪の放送収支が赤字だったことを明らかにした。1984年ロサンゼルス大会以降、赤字は初めて。CM収入の伸び悩みが響いている。

テレビマネーが目減りしたら、IOCの財政基盤も、揺らいでしまう。

(中井大助、稲垣康介)
(文中敬称略)

[Part4]稼いだお金はどう使っている?

IOCの収入源の一番手は放送権料だが、もう一つの柱が「TOP(ザ・オリンピック・パートナー)」制度と呼ばれるスポンサーからの協賛金だ。1業種1社に限り、世界中で五輪のシンボルマークやマスコットを独占的に広告・宣伝に使うことを許可する。契約は五輪の開催にあわせて4年ごとだから、夏冬1大会ずつ。さらに長期契約を結ぶ企業もある。

このアイデアを提案したのが、アディダス社のトップ、ホルスト・ダスラーだった。1982年に大手広告会社・電通と共同で設立したマーケティング会社ISLがIOCのマーケティングを請け負い、85~88年の第1期にIOCが得た収入は9600万ドル(9社)だった。IOCが自ら募る今、2009~12年では9億5700万ドル(11社)に高騰している。

しかし、会長のロゲは、IOCは金の亡者ではないと強調する。「我々は収入の9割以上をスポーツ界に還元している。各国のオリンピック委員会、国際競技連盟、大会組織委員会にも分け、恵まれない国々のアスリートを経済的に支援している」。2008年のIOCの支出=グラフ参照=を見ると、支出のうち、IOCの運営費は1割にも満たない。

国際競技連盟への分配方法も、夏季競技の場合、テレビ放送時間、新聞、インターネットへの露出、世論調査、観客数などの基準から五つのランクに分かれている。最高位のグループAは陸上、水泳、体操だ。

TOPスポンサー収入から各国オリンピック委員会への配分は、1990年代までTOPの大半を米国系企業が占めていたことから、米国が他のすべての国・地域の合計額に匹敵する分配金を受けていたが、昨年、是正が決まった。

(稲垣康介)
(文中敬称略)

[Part5]テレビマネーで支援するスポーツ途上国

優秀な選手は、優秀なコーチから/photo:Wake Shinya

IOCが五輪でもうけたお金の一部は、経済的援助が必要な国や地域のスポーツ発展に使われている。スリランカの最大都市のコロンボで6月末、10歳以下を対象にしたテニス大会が開かれた。低反発ボールを使うルールで、この国ではいまテニスをする子どもが増えている。推進したのはスペインへの短期留学の経験を持つナショナルコーチのクリス・ピレイ(32)だ。

クリケットの人気が圧倒的に高いスリランカでは、テニスはマイナースポーツ。世界ランキング上位の選手も、五輪出場選手もいない。状況を変えるため、スリランカのテニス協会とオリンピック委員会は2006年、国際テニス連盟がスペイン・バレンシアで開くコーチ育成プログラムへのコーチ派遣を決めた。選ばれたのがピレイだった。

独学で英語を習得し、国内各地で指導して回る熱心な姿勢が評価された。スペインへの渡航費など合わせて100万円ほどの経費が問題だった。頼ったのがIOCから出た支援金だ。

転機は84年ロス五輪


もともと、独立したばかりの国のスポーツ振興を後押ししようと1960年代初頭に始まった支援制度は、当初、資金不足で満足のいく支援はできなかった。しかし、84年のロサンゼルス五輪から状況が一変。潤沢な放送権料を元に、IOCは4年単位で取り組める選手やコーチの育成支援制度を充実させた。IOCの収入増加に伴い、途上国などへの支援金も増え、2005~08年に2億4400万ドル、09~12年に3億1100万ドルの予算が組まれた。

選手の直接的な育成でなくコーチ育成を優先させたことについて、スリランカ・オリンピック委員会事務局長のマクスウェル・デ・シルバは「優秀な選手を育てる環境づくりは、優秀なコーチを育てることから」と話す。ピレイは3カ月の研修で、最新のコーチ理論や実技を学び、国際テニス連盟がプロを指導できる水準と認めるコーチ資格も取得した。「世界屈指のダビド・フェレールの練習を目の前で見られた。刺激的な日々だった」。世界各地のテニス先進国を訪れ、世界で戦える選手を育てるにはテニス人口の拡大が必要だと痛感した。幼少期からテニスに親しめる環境をつくったのはこのためだ。

さらに今年2月、国内初の私立テニススクールを立ち上げ、発掘した才能を育成する事業にも乗り出した。「若い選手が夢を持てるトップ選手の成功モデルをつくりたい」と話す。16歳の選手は来年、女子ツアー参加に手が届く所まで実力をつけてきた。

南アの水泳、ブラジルの柔道。奨学金でメダリスト続々


IOCの奨学金で育った選手が、2012年ロンドン五輪でも、続々と輝きを放った。印象的な選手の代表格はジャマイカの陸上短距離選手、ヨハン・ブレークだ。100m、200mとも同郷のウサイン・ボルトに及ばず銀メダルだったが、ボルトと組んだ4×100mリレーでは世界記録樹立に貢献して金メダル。「野獣」の愛称で観客に親しまれ、主役級の活躍を見せたブレークは、IOCの援助でトレーニングや遠征をこなし、力をつけた。

ロンドン五輪に向けた09~12年には、177の国内オリンピック委員会に推薦された1264人の選手が合計1900万ドルの奨学金を受けた。

このうち、ヨーロッパ256人、アメリカ129人、アフリカ121人、アジア127人、オセアニア24人の計657人が実際にロンドン五輪に出場。計20種目に分かれて挑み、金と銀が各23個、銅30個で計76個のメダルを獲得した。

南アフリカのキャメロン・ファンデルバーグは競泳の100m平泳ぎで世界記録をたたき出し、競泳で南アフリカ初の金に輝いた。柔道の女子48キロ級に出場したブラジルのサラ・メネゼスも、地元女子柔道界に初の金メダルを持ち帰った。

(和気真也)
(文中敬称略)