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IOCの後押しでコーチ資格 スリランカにテニスのプロ選手を育てたい

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ラケットを手にラリーの練習に加わるバラティ(32)=スリランカ・コロンボ/photo: Wake Shinya

「バラティ」と友人たちからは呼ばれていた。キリスト教徒である彼が、公の場で使うクリスとは別の名前、タミル語の名前だ。

バラティが生まれ育ったのはスリランカ東部になるバティカロアという町。スリランカは長年、民族的な独立を望む一部のタミル人が、多数民族のシンハラ人に反発して内戦状態にあった。バティカロアはタミルの町だった。

郵便局員だった父と、母、妹2人の5人家族。テニスと出会ったのは13歳のときだったという。学校の放課後の課外活動で知った。「こんなおもしろいゲームがあるのか」と夢中になった。18歳。バラティは地元の工科大学へ進んだ。機械の知識を覚えて、ドバイあたりの自動車会社で働けたらいい。漠然とそんな将来を描いていたころだ。

■きっかけは、都会への憧れから

ところが、思いがけない誘いがくる。当時の首都コロンボで開かれるテニスの強化合宿があるという。工科大でコーチをしていた彼にも興味がないかとの打診があった。だが、参加を決めたのはテニス合宿への関心よりも、都会を見てみたいという憧れだった。内戦下、コロンボへ行くのは「冒険」だった。「舗装が不十分な道をバスに揺られて約10時間。関所を五つぐらい越えたかな」

コロンボの合宿ではコーチ5人中4人が外国人。共通語は英語だった。タミル語しか話せないバラティは、身ぶり手ぶりで合宿に参加。意思疎通は、いま一つだったが、実技の確かさではコロンボのコーチ陣をうならせた。

この合宿がコーチの選抜試験を兼ねていたと知ったのは、終わってからのことだ。コロンボ近隣で指導するテニスコーチにならないかと打診された。自動車工でなくテニスで生きる人生を初めて想像した。「そんな道があるなら、悪くない」。都会での指導に必要な英語を独学で習得し、コロンボへ出た。

そこからの出世は、早かった。

2004年に「レベル2」と呼ばれる国際テニス連盟公認のコーチ資格を取得。スリランカ・テニス協会のコーチとして国内各地で指導して回ると、その姿勢が評価されてIOCの支援制度でスペインに短期留学。スリランカで初めて最高位となる「レベル3」のコーチ資格を取得した。国を代表するコーチとして若いアジアチームの指導にもあたり、欧州やアジアを飛び回った。

■話はとんとん拍子に

2011年、スリランカのテニス人口拡大のため、6~10歳の子どもたちが親しみやすいルールのテニスの導入を協会に提言し、自ら旗振り役となった。活動が一段落した今年2月、8年勤めた協会を辞め、幼なじみと事業家の友人3人で国内初の私立テニススクールを立ち上げた。

いま夢見るのはトッププレーヤーの育成だ。年間契約したコロンボ中心部のテニスコートで指導する。通ってくる10代前後の子どもたちは、各年代の大会の優勝経験者がそろう。

実は20人足らずの教え子のうち、3人の生徒は奨学金枠を適用して月200ドルの授業料を免除している。いずれもテニスの成績は学年トップクラス。だが、家庭の収入が安定せず、テニスの継続が困難な子どもたちだという。バラティは「自分の子どものころは内戦でそれどころではなかったが、いまは内戦もなく、早くから上達すればプロの夢もつかめる」と話す。「コーチとして、子どもたちがチャンスをつかむ手助けがしたい」

奨学生の一人、16歳のカーヴィディア・デ・シルバは、来年からでも女子ツアーで戦える力がついてきた。実現すればスリランカ初となる。ツアーを戦う費用を賄うためのスポンサー探しなど課題はあるが、夢の芽吹くころが見えてきている。