今回、公開されたのは、司令部中枢に近い「第2坑道」「第3坑道」と呼ばれる区域。壕は首里城(那覇市)の地下にあり、5本の坑道の総延長は約1キロ。坑道は高さ1.2~2メートル、幅1.3~2.8メートルで、所々に落石や水たまりがあった。
当時、ここに立てこもった日本軍将校らは、様々な設備を目の当たりにして「ホテル並みだ」と喜んだという。こうした陣地づくりは作戦遂行のうえで大きな意味を持つ。ウクライナが昨年の反転攻勢に失敗した背景には、「スロビキンライン」と呼ばれるロシアの堅牢な陣地の抵抗があった。
第32軍は1944年3月、沖縄にある飛行場守備などを目的に大本営直轄で編成された。当初の作戦構想は、第9、24、62の3個師団と独立第44混成旅団(師団の半分の規模)という「3.5個師団」が、上陸した米軍を南北から挟み撃ちにして撃滅するというものだった。
日本軍は米軍を撃退するという作戦構想を前提としており、司令部も長期戦に耐えられる堅牢なつくりになっていた。経済の中心地であり、交通の要衝であった首里を最終的な防衛拠点に選んだのは自然の流れだった。
ところが、1944年7月、サイパンが陥落して「絶対国防圏」が崩壊した。大本営はフィリピンで米軍を食い止めるつもりだったが、同年10月のレイテ沖海戦で大敗し、フィリピンの日本軍はほぼ壊滅状態に陥った。大本営は1945年1月、より本土から離れた場所で米軍を食い止めるため、第32軍の第9師団を台湾に転出させることを決めた。陸上自衛隊東北方面総監を務めた松村五郎元陸将は「本土決戦だけは避けたいというのが、大本営の考えでしたが、劣勢に回った軍の宿命で、対応が後手後手になりました」と語る。
第32軍は戦力の3割近くを占める第9師団の転出に強く反発したが、大本営の戦争指導もあり、作戦に大きな変更を加えなかった。松村氏は「陣地を築くことを築城と言いますが、一度工事を始めた築城を途中で変更することは極めて難しいのです。第32軍の勢力が縮小されたことで、本来なら築城方針も根本的に修正する必要がありましたが、実際には小さな修整しかできなかったのだと思います」と語る。
1945年3月から沖縄本島への空爆が始まり、同年4月1日、米軍が読谷・北谷海岸に上陸した。旧日本軍と沖縄県民の士気は高く、善戦したが、物量で圧倒する米軍は第32軍の防衛線を次々に突破した。1945年5月22日、第32軍は司令部壕を爆破して南部の喜屋武半島への撤退を決めた。当時、第32軍の八原博通高級参謀は「首里を最終決戦場とするのではなく、第一線とみれば、まだ持久は可能だ」と主張した。
しかし、日本軍の士気は低下し、当時残っていた約5万の兵力が、南部に到着時には3万人まで減っていた。当初の築城方針では、南部に築城した陣地はすべて海側からの攻撃に備えられていたため、北部から侵攻する米軍には大きな効果を発揮しなかった。
牛島司令官らは6月23日までに自決した。第32軍は首里までは約2カ月間にわたって持ちこたえたが、南部へ後退後は2、3週間しか戦い続けられなかった。
南部撤退の結果、南部に避難していた沖縄県民に多数の犠牲者が出た。沖縄県民の犠牲者9万4000人の半数以上が、この最後の1カ月間に亡くなったとされる。牛島司令官らが立てこもった摩文仁の丘の司令部壕は自然壕を利用したものだったが、まだ軍用ロウソクで明かりを取れるだけマシだった。民間人は食料も明かりもなく、手探りで隠れていたという。
松村氏は「米軍が沖縄に上陸した時点で、第32軍の作戦は米軍撃退のため準備した陣地を死守するという当初の方針のままでした。ところが、戦力が削られているうえ、米軍の戦力が巨大で、とても撃退はできない。しかし、本土への侵攻を遅らせるために少しでも時間を稼ぐ必要があるという判断になったのでしょう」と語る。
第32軍の取った南部撤退は、自衛隊でも「遅滞行動」として作戦の一つに位置付けられている。しかし、それは、戦いながらじりじりと後退して時間を稼いでいる間に、味方の増援を待つというのが前提だ。当時、米軍が沖縄周辺の制空・制海権を握っていた。本土からの増援はあり得ないというのが常識だった。松村氏は「もともと第32軍の築城は、南部への遅滞行動を前提にしたものではありませんでした」と語る。
首里城下の第32軍司令部壕は、その堅牢なつくり自体が、南部撤退を前提としたものでなかったことを証言している。突然の撤退のため、軍は住民を南東部の知念半島に退避させるように県に指示したが、十分に行き届かず、多くの住民が犠牲になった。
現代では、南部撤退を決めた牛島司令官ら第32軍司令部の判断に批判が集まっている。同時に、本来、実現し得ない「米軍撃退」という目標を維持させた大本営や日本政府の責任も改めて考えなければいけないだろう。