作品が扱うのは、沖縄がまだアメリカの施政権下にあった時代。日本は戦後、サンフランシスコ講和条約(1952年)によって主権を回復したが、沖縄では当時、アメリカ軍の琉球列島国民政府(USCAR)が事実上、統治していた。
USCARが定める布令は沖縄社会を縛る絶対的なルールだったが、その一つに沖縄に入ってくる物品に関税をかけることなどを定めた「物品税法」があり、玉城さんはこれに怒りの声を上げる。
課税対象とされる魚のリストに記載されていないにもかかわらず、サンマに20%の関税がかけられていたからだ。
サンマはすでに沖縄でも大衆魚として親しまれていた。不当な課税で価格が高くなることで、商売人の玉城さんも消費者も不利益を被っていた。
玉城さんは1963年、USCARの下部組織である琉球政府を相手取って徴収された税金の還付を求める訴訟を起こし、一審、上告審とも勝訴した。これがいわゆる「サンマ裁判」だ。
アメリカ統治に不満を持っていた住民たちを活気づかせ、別の業者も「第2サンマ裁判」を起こした。一審は勝訴し、決着は上告審へと移ったが、そこでアメリカ側が介入。判決の直前になって裁判自体がUSCARの裁判所に移送され、結果は業者の敗訴となった。
これを受けて沖縄の住民らはアメリカに対する抗議運動を展開。裁判官たちからも反発の声が上がるなど、沖縄の人たちの間で自治意識や日本復帰への願望が強まっていった。
作品では、玉城さんの弁護人で政治家の下里恵良氏や、移送問題でも抗議に加わった政治家、瀬長亀次郎氏ら復帰運動で重要な役割を果たした人たちも紹介している。そんな彼らに大きな影響を与えたのが最初のサンマ裁判であり、玉城さんだったと位置づける。
「ウシおばぁにしてみれば、自治だの民主主義だのという感覚はなかったのでしょうが、歴史を見てみると、彼女のエネルギーが復帰運動にまでつながっていく。そこが面白いところです」
山里監督はそう見どころを語る。監督との主なやり取りは次の通り。
――このテーマを作品にしようと思ったのはなぜですか。
友人のFacebook投稿がきっかけでした。6年前になりますが、彼が父親が亡くなったことを報告した際、「父は、沖縄復帰運動の起爆剤になった『サンマ裁判』を裁いた裁判官でした」と書き込んだのです。
サンマ裁判というフレーズにひかれましたね。私は沖縄出身のテレビマンです。職業柄、沖縄には詳しいはずなのに知らなかった。
興味がわいて調べていくと、サンマ裁判というのは二つあって、友人の父親が担当したのはその二つ目だったのですが、最初にサンマ裁判を起こしたのが魚屋のおばぁということがわかったんです。しかも名前はウシだと。「ウシがサンマ?」っていうインパクトと、おもしろさがありましたよね。
ウシおばぁにしてみれば、根拠もないのに税金を取られて、そんな不正は許さないという思いで、自治だの民主主義だのという感覚はなかったのでしょうが、歴史を見てみると、彼女が声を上げたエネルギーが起点となって雪だるま式に転がって、裁判移送をめぐる反対運動といううねりになって、さらには政治家の瀬長亀次郎も登場してと。もう絶対面白い番組が作れるという確信がありました。
沖縄のドキュメンタリーというと、どうしても難しい作品が多いですよね。それは本当に複雑だから仕方がないんですけど、でもウシおばぁの話は、庶民の生活の問題からスタートして、「おかしいことはおかしい」という感覚で動いた人がいて、結果的に大きな復帰運動へと飛び火したというのは面白いしわかりやすい。ぜひ皆さんにも知って欲しいなと思いました。
――来年は沖縄が日本に復帰してから50年を迎えます。そのタイミングに合わせたのですか。
正直、時期はあとからついてきたんですね。友人のFacebook投稿のあと、企画書を書いたのですが、すぐには番組にするタイミングがなくて。
それでも、民放でつくる「民間放送教育協会」が加盟局から作品を募って映像化する「民教協スペシャル」に応募したところ、最優秀企画賞に選ばれて、全国放送する権利を得ました。
結局、それから取材を進めて放送されたのが2020年2月。そこから映画化を目指したらたまたまこういう時期になったと。
ただ、やっぱりこの時期に映画になるべくしてなったのかなとも思いますね。この作品はウシおばぁの奮闘を軸に、沖縄の理不尽な状況、「民主主義って何?」ということを問いかけるのがテーマです。そしてそれは今も沖縄をめぐって現在進行形で続いていて、復帰50年の節目のいいタイミングに巡り合えたなと。
――監督はこのサンマ裁判を知らないとおっしゃいましたが、まさに「埋もれた歴史」だったのでしょうか。
二つ目のサンマ裁判については新聞記事にもなっているんです。裁判移送の問題が起きて、自治を揺るがす大問題だ、司法の危機だという運動まで発展したので、沖縄の戦後史の中でも大きな出来事としてみんな知ってます。
ところがウシおばぁが起こした最初のサンマ裁判については、ベテランの新聞記者でも初めて聞いたみたいな反応でした。確かに当時の新聞もほとんど報じていないんです。だから本当に埋もれていた歴史という感じですね。
――取材をされたときにはウシさんはすでに亡くなられていましたね。記録も少ない中、取材は困難を極めたのではないですか。
最初は高をくくっていました。カメラを回しながら公設市場を2回聞き込みしたのですが、まあ同じ業界の人たちだから簡単に色んな話を聞けるだろうなと思ったんですね。
ところが、「知らない」の連発で。青ざめました(笑)。何とかウシさんの妹を知っているという手がかりまではたどり着いて。妹さんも鮮魚店をやっていて、競りにも90歳ぐらいまで出ていた有名人だったんですね。
隣町にある妹さんの店に行ってみると、彼女の義理の娘さんやお孫さんから「ああ、あと30年早かったらね」と言われてしまって。
2人もウシさんについては亡くなる直前の晩年しか知らなくて。きっと妹さんに話が聞けたら、ウシさんのことがもっとわかったんでしょうけど。それで「どうしよう」という感じになりました。
――裁判自体の資料も乏しかった?
そうですね、番組にも登場しますが、当時新人の裁判官だった方が書いたという文章にはたどり着いたんです。弁護士の専門誌のようなものに、彼が記憶しているサンマ裁判について書いたものです。
それともう一つは、日本関税協会が発行している月刊誌「貿易と関税」に掲載された文章です。サンマ裁判当時、沖縄の税関職員だった方が書かれていて、これがある意味、一番詳しかったんです。
これで事実関係は何となくみえてきたのですが、やっぱり肝心のウシおばぁの人物像がはっきりしてこない。そこでいつも一緒に仕事をしている構成作家のアドバイスで、落語を採り入れてはどうだろうということになったんですね。
というのも、落語の古典に「目黒のさんま」という噺(はなし)があるんです。サンマつながりということもありましたし、ウシさんについて肉声や証言がない中、「こうだったらしい」「あの人がこう言っていたよ」と間接的に伝えるのだとししたら、ドキュメンタリーの正攻法では難しいけど、落語なら噺家の人がその辺をうまくそしゃくして生き生きと人物像を浮かび上がらせることができるのではないかと思ったんですね。それで道が開けたという感じでした。
――作品で伝えたかったことは何でしょう。
復帰前の沖縄を「面白いね」と純粋に体感して欲しい、これが一番伝えたいことですね。
僕は現在、57歳になったところなんですが、沖縄が復帰した1972年は小学校2年生でした。復帰当時の記憶をリアルなものとして持っている世代としてはおそらく最後ぐらいじゃないかと思うんです。
当時の思い出話をしますと、僕は最初、お小遣いはドルでもらっていたんですね。だから貨幣価値というのは最初、ドルで覚えたんですよ。1ドルはこのぐらいのものが買えるとか、25セントなら贅沢ができるとか。
この貨幣価値が身に付いたころに沖縄が復帰して、お金が日本円になったわけですね。最初はやっぱりなじめないわけですね。だって駄菓子屋さんでもドルでお菓子を買ってたわけですから。
そんな子どもが今日から「はいこれ」って円を渡されて、1ドル300円とか言われても変換ができないじゃないですか。10円でどのくらいのものが買えるかわからなくて。
例えばドルだと、1セントという一番小さい金額で塩せんべいが買えるという感覚が染みついていて。1円持って駄菓子屋に行って、「おばぁ、じゃあこれで」って言って差し出したら、おばぁが悲しい顔をするんですよ。「今日からはね、この1円玉では何も買えないんだよ」って。
10円でせんべい1枚が買えると。要するに貨幣価値が10倍ぐらい違うと。そういうことをリアルに知っている最後の世代の責任としては、復帰前の沖縄の状況を伝えたいという思いがあります。
復帰から来年で50年。復帰前の記憶はどんどん遠くなっています。「5月15日って何の日?」って聞かれても、「復帰の日」とすぐに応えられる若者はもう皆無だと思いますね。
僕はあの時代を否定してはいないんです。復帰前のいわゆる「アメリカ世(ゆー)」をへていなければ今の沖縄はなかったと思います。
例えば、ジャズやロック、民謡といった戦後の沖縄を彩った音楽というのはものすごくアメリカ統治時代の影響があって、よくも悪くもアメリカの文化が入ってきたあの時代をへての沖縄らしさというのがあると思うです。
その上で、「おかしい事はおかしい」と声を上げた人たちがいて、それによって沖縄の人たちが大きな権力をみんなではね返そうと闘っていたことを知ってもらえたら、今の沖縄の見え方もだいぶ変わるんじゃないかと思うんです。
――今の沖縄という話で言えば、作品の最後は現在の沖縄の映像に切り替わって、基地問題のシーンが登場します。最初からあの形で終わらせようと思ったのでしょうか。沖縄を描く上でステレオタイプなのかなとも思ったのですが。
僕の中では意外と迷いはなかったです。確かにテレビ版を放送した後、「あれは言わずもがなじゃない?」と、色んな人から言われました。基地問題に結びつける構成にしなくても、視聴者はわかるだろうという指摘だったのですが、まあ、でも僕としてはやっぱりあそこはドキッとさせる意味でもね、あのような締めくくりにしました。
だって、それが沖縄の現実なんですよね。基地問題抜きにはありえないし、「また沖縄のそれか」って言われようとも、僕らは毎日、その問題と向き合ってるんですよ。だから変に「わかるでしょ」って言うよりも、はっきりと「今起きている現実の問題と地続きなんですよ」と見せようと思いました。
――だとすると、作品の中で、アメリカのキャラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話だ」という発言を紹介したのは、今の沖縄が置かれた現状を表す補助線にもなっている気がしますが、そのような理解でいいのでしょうか。
その通りです。キャラウェイは「日本政府は二枚舌だ」とも言うんですが、今の沖縄の現実にも当てはまるよねという。
そんなキャラウェイをですね、前知事の翁長雄志さんがまだ官房長官だった頃の菅(義偉)さんと会談したときに引き合いに出してるんです。辺野古にアメリカ軍の基地を移すことを「粛々と進める」と言った菅さんに対し、「まるでキャラウェイを思い出す」と。
沖縄の戦後を振り返ると、あの言葉はすごい言葉だなと思いますね。しかも2人が会談したバーバービューホテルは、いみじくもキャラウェイが「自治は神話だ」と発言した場所でもあったんです。
翁長さんがそこまで考えていたのかはわかりませんが、ただ、あの言葉の重みをあの場所にいた記者や菅さんがどのくらい受け止められたのかなって思いますね。ポカンとして「キャラウェイって誰?」っていう感じだったのかもしれません。