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日本海軍が事実上壊滅した太平洋戦争マリアナ沖海戦から80年 現代に残した教訓は

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
敵を攻撃しに向かう艦上攻撃機TBFアベンジャーとSB2Cヘルダイバー。1944年6月30日に公開された写真
敵(日本軍)を攻撃に向かう艦上攻撃機TBFアベンジャーとSB2Cヘルダイバー。1944年6月30日に公開された写真=米国国立公文書館所蔵

――米軍はなぜ、マリアナ諸島のサイパン島攻略を考えたのですか。

そもそも、米軍は太平洋のマーシャル諸島からカロリン諸島へ西進し、フィリピンまたは台湾を目指す考えでした。サイパン島などからなるマリアナ諸島は西進ルートの北に位置するため、米太平洋艦隊内部では「無視して良いのではないか」という声がありました。しかし、キング米艦隊司令官が「マリアナを攻略すれば、日本の南北の交通線を遮断できる。日本本土や沖縄、台湾、中国本土などへの攻略にも使える」と主張し、攻略が決まりました。

――マリアナ沖海戦で、日本海軍は甚大な打撃を受けました。

日本はマリアナ沖海戦に、翔鶴や瑞鶴、大鳳などの空母9隻と艦載機430機を投入しました。これは、真珠湾攻撃に参加した大型空母6隻と艦載機423機を上回る規模でした。しかし、数はほぼ同じでも、実力は雲泥の差がありました。最終的に、翔鶴、大鳳など空母3隻が沈没し、艦載機は次々に撃墜、あるいは事故などで失われ、21日に稼働可能な艦載機は、わずか35機でした。

1944年6月20日午後、米海軍の攻撃の中、進路を変える日本軍の空母「瑞鶴」と2隻の駆逐艦
1944年6月20日午後、米海軍の攻撃の中、進路を変える日本軍の空母「瑞鶴」と2隻の駆逐艦=米国国立公文書館所蔵

日本海軍は同年10月のレイテ沖海戦に空母4隻を投入しますが、艦載機はわずか109機しかなく、おとり部隊として使わざるを得ない状態に追い込まれました。マリアナ沖海戦は、日本海軍の母艦航空隊が事実上壊滅した戦いと言えます。

――なぜ、これほど手ひどい損害を被ったのでしょうか。

まず、日本軍パイロットの経験と訓練不足がありました。真珠湾攻撃当時は、飛行時間が数千時間単位に上るパイロットも珍しくありませんでしたが、マリアナ沖海戦に参加した多くの搭乗員の場合、数百時間程度でした。飛行機を飛ばすのに精いっぱいで、射撃、爆弾や航空魚雷の命中精度が落ちました。

ベテランぞろいの時代には、敵艦隊上空に進入してすぐに攻撃に移れましたが、マリアナ沖海戦当時は、攻撃開始直前に、隊長機が15分くらい空中で旋回しながら、隊員機に攻撃する場所などを無線で指示しなければなりませんでした。米艦隊はこの指示を傍受し、迎撃態勢を整えました。

次に米軍は、従来のグラマンF4Fワイルドキャットに代わり、F6Fヘルキャットなど新しい戦闘機を投入しました。速度や上昇、旋回などすべての能力が向上していました。

1944年6月に撮影された米軍機グラマンF6Fヘルキャット
1944年6月に撮影された米軍機グラマンF6Fヘルキャット=米国国立公文書館所蔵

これに対し、日本は技術陣の層が薄く、数少ないスタッフで複数の新型機の設計や実用中の航空機の改良を担当していたため、新型戦闘機の開発が遅れていました。このため、日本軍は真珠湾攻撃当時と同じ、ゼロ戦を主力として使っていました。

それでも、熟練パイロットであれば、ゼロ戦でも空戦に耐えられました。米軍はパイロットに「ゼロ戦とは格闘戦に持ち込まず、一度攻撃したら、すぐに離脱しろ」と指示していました。

しかし、練度が落ちる日本軍パイロットは、周囲を見張る能力が劣り、遠くの敵をいち早く発見できず、奇襲を許しました。熟練パイロットは、敵機を攻撃する直前に背後を必ず確認します。攻撃に夢中になる瞬間が一番危ないからです。しかし、経験不足の日本軍パイロットはこれができず、次々に撃墜されました。

米軍では当時、「マリアナの七面鳥撃ち」と言われたほど、1日に5、6機の日本軍機を撃墜して「1日で撃墜王になるパイロット(Ace in a day)」も生まれました。

1944年6月19日、米軍機が日本軍機を次々と撃墜する「マリアナの七面鳥撃ち」で6機を撃墜したことを笑顔で示す米海軍中尉
1944年6月19日、米軍機が日本軍機を次々と撃墜する「マリアナの七面鳥撃ち」で6機を撃墜したことを笑顔で示す米海軍中尉=米国国立公文書館所蔵

また、米軍ではレーダーの性能向上や、直接命中しなくても近くで爆発して破片で破壊する近接信管の登場、管制官がレーダーや無線を傍受した情報などを総合して、最適な迎撃態勢を指示する戦術などもみられました。

――日本は米軍に攻撃されない位置から、攻撃機を発艦させる「アウトレンジ戦法」を取ったそうですが、通用しなかったのですか。

日本軍機は軽量のため、防御力が劣っていましたが、航続距離が米軍機よりも長い利点を持っていました。この距離を生かそうとしたのがアウトレンジ戦法です。しかし、パイロットの練度が落ちていたため、長い距離を飛行するだけで疲弊し、能力がさらに落ち、被害を大きくしました。しかし、当時の日本が戦争を継続する意思を持っていた以上、日本海軍が取りうる作戦はこれしかありませんでした。

1944年6月19日、日本軍機による爆撃をすんでのところで免れた米軍の空母バンカー・ヒル。画面左上では、尾翼を吹き飛ばされた日本軍機が墜落している。米空母モンテレー上から撮影された
1944年6月19日、日本軍機による爆撃をすんでのところで免れた米軍の空母バンカー・ヒル。画面左上では、尾翼を吹き飛ばされた日本軍機が墜落している。米空母モンテレー上から撮影された=米国国立公文書館所蔵

――なぜ、日本軍はパイロットの養成が遅れたのでしょうか。

日本軍は従来、少数精鋭主義を採っていました。海軍の場合、1930年代は年間のパイロット養成数が100人程度だったそうです。開戦後に急遽、年間数千人規模にしましたが、時間も機材も不足して間に合いませんでした。

第2次大戦は、真珠湾攻撃の成功から航空戦が主流になりました。日本は航空戦が中心になり、大量消耗戦につながっていくと予想する力が足りませんでした。

1944年6月19日、米軍機が日本軍機を次々と撃墜する「マリアナの七面鳥撃ち」の局面で、空に描かれた飛行機雲
1944年6月19日、米軍機が日本軍機を次々と撃墜する「マリアナの七面鳥撃ち」の局面で、空に描かれた飛行機雲=米国国立公文書館所蔵

――マリアナ沖海戦が現代に残した教訓は何でしょうか。

よく、どの国の将軍も「最後に自分が戦った戦争のイメージで、次の戦いの準備をする」と言われています。しかし、時代に応じて戦争の形は変わっていきます。未来の戦争を予測することは極めて重要です。

現代でも、宇宙や無人兵器、サイバーなど、新しい兵器や戦域が生まれています。以前と同じ戦術が通じるとは限りません。よく、「中国は第2次世界大戦当時の日本軍の戦略・戦術を研究している」と言われますが、中国が旧日本軍と同じ戦い方をするとは限りません。常に、未来を予想する力が問われているのです。