「魔法の文学館」は子どもたちが本と出会う場所
――11月3日には「魔法の文学館」が開館し、同月には京都・宇治市の紫式部文学賞の贈呈式に出席されていました。2023年はお忙しい一年でしたね。
なんかドドッといいことがたくさんありましたね(笑)。
――「魔法の文学館」は、どんな思いを込めた文学館ですか?
自分で本が読めるようになったお子さんたちが、読み聞かせじゃなくて、自分から本を選んで読んでほしい。そういう思いで私が本を選び、文学館を作りました。
――その狙いは何ですか。
文学館で本を読む子どもたちを見ればいかに本が好きかわかります。例えばそばで私たちが撮影していても、まったくわれ関せず。集中して読んでますよ。
――世界中の児童書が約1万冊も収蔵されているそうですね。角野さんご自身も、本を通じて世界を知ってきたのでしょうか。
世界を知るということがどういうことか分からないけれども、本が自分の世界を広げたってことは言えるかもしれない。
自分の世界を広げてくれるし、自分の言葉を見つけることができるし――なんて言うのかしら、感動と一緒に言葉が体の中に入っていく。そういう機会が文学館にはあるように、と思いました。
もちろん私一人で作ったわけじゃなくて、江戸川区やいろいろな方のサポートがあってできたものです。館内の本は系統立てて並べていません。アットランダムに置く。子どもたちに自分で見つけて、できれば声をだして読んでほしい。科学書は科学書とか分類された通常の図書館とは違った配架の仕方をしました。
――1月にはドキュメンタリー映画が公開されるということですが、ご自身が映画になるというのは初めてですか。
もちろんですよ。 初めてだし、私を見ても……あまりたいしたことないじゃないかって思うけどね……(同席している制作スタッフに)ごめん(笑)。うふふ。
ブラジル時代の友人と再会
――映画には、ルイジンニョさんが魔法の文学館に来られるシーンもありました。
彼に会えたことは本当に奇跡みたいなもので、そういう機会が与えられたっていうのはすごくうれしいですね。良かったと思います。来日したのは2023年の9月、まだ暑かったんですよね。彼もちょっと具合が悪かったんですけど、お医者さんを説得して来てくれたんです。
――62年ぶりの再会だったそうですね。11歳だったルイジンニョさんが70代半ばになっていました。
そう。おじいちゃんになっちゃった(笑)。 自分がおばあさんになってるのは棚に上げて、「あれ、年取っちゃってるな」なんて思っちゃって(笑)。
でもやっぱりね、話しているとルイジンニョだなと思いましたね。彼はすごく言葉が素晴らしいの。
――ルイジンニョさんのことは、フェイスブックで見つけて再会できたそうですね。ご自分で探したんですか。
私はそんなことはできないですけど、(ルイジンニョさんの)お母さんが歌手だったので、それで編集(社)の方がね、ユーチューブで彼女の歌を見つけてくれた。私は彼女が売れない時に知り合ったので、まさかこんな風に出ているとは思わなくて。私と別れて何年か後、歌手としてとても成功したそうです。
――角野さんが1970年に「ルイジンニョ少年」を著したことも彼は知らなかったんですね。
そうです。彼に会えれば見せたいなと思いましたけど、住所も分からないでしょう。それから「ルイジンニョ」っていうのは、(本当は)ルイスっていう名前なんですよ。栄子って名前でいえば「栄子ちゃん」っていう感じなんです。だから名字が分からない。お母さんの芸名はルーチ・アマラルって分かっている。でもそのぐらいしか分からないし、アパートから突然いなくなったの。何か事情があったのだと思います。
角野さんを突き動かす「ここではないどこかへ」
――今でも海外移住することにはハードルがありますが、角野さんが60年以上前に24歳でブラジルに移民したことは、改めてすごい行動力だなと思います。
今の方は皆さんすごくそうおっしゃるんですけど、戦争の時に言論統制があったわけだし、自由に動けなかったわけでしょう。で、それが終戦と同時に欧米の文化がもう怒濤のごとく入ってきたわけです。 そうすると、実物を見てみたいとか、そういう気持ちが当時の若者に沸き上がっていました。
世界と自分たちを比べてみたいとかね。多くの若者がそう思っていたと思いますよ。
だけど行かれないわけですよ。鎖国状態っていうか、外国には行かれない。ビザが出ない。お金があればいいんですけど、ドルが自由化されていないから。だけど戦後すごく日本の人口が増えたので移住は奨励されていました。それで私たちは政府移民ではなく、知り合いを見つけて呼び寄せてもらう自費移民という形で行ったんです。
――角野さんが、いろんなエッセーに書いていらっしゃる「ここではないどこかで、自由になりたい」。それが、その時の気持ちだったんですか。
それはね、私がちっちゃい時からですね。 「ここではないどこか」っていうか、「どこかに違う世界がある」って気持ちが、小さい時からあったんですよね。母が5歳の時に亡くなったものですから、いなくなっちゃうってどういうこと?っていうね。そこから始まってるんだろうと思うんですよ。
で、全然いなくなっちゃったのかしらとか、もしかしたら、どこかに別の世界があるのかも……子どもだから、そういうふうにいろいろ考えたんだと思う。ちょっと家出をしてみたいとかね、この家から出てみたいとかね、違う世界に行ってみたいとかね。そういう気持ちが私は強い方だったかもしれないわね。
だからよく一人でぶらぶら歩いたりしましたね。それは今でもずっと続いてるんじゃないかしら?筋書きのない散歩、みたいなのがね。本を書くのだって、そういうことだと私は思いますね。
――角野作品はどれも視点が温かくポジティブです。(自身の戦争体験を土台にした)「トンネルの森」もそうですが、つらい境遇の中でも自分なりに想像をめぐらせてみたりとか、それは持ち前のものでしょうか。
そうね。持ち前かどうか分からないけれど、「マッチ売りの少女」という物語があるでしょう。結末があまりにかわいそうな話でしょう。小さい時、ああいう話は好きじゃなかった。戦後、若い頃に見たアメリカの映画やなんかは、みんなハッピーエンドだったから。私、ハッピーエンドはいいなぁって思いました。
――50代、60代で書かれた作品もみずみずしい少女の心の動きを捉えています。「魔女の宅急便」もそうですが、娘さんを見ながら書かれたのでしょうか。
彼女はモデルではないですよ、モデルはやっぱり自分ですよ。
「世界は二つに分けられない」
――戦争についてもお尋ねします。ウクライナやパレスチナで起きている紛争について角野さんが何か思うところがあれば教えてください。
もう絶対反対です。いかなる理由があっても人を殺しちゃいけないと思ってます。
でも世の中で何が良いか悪いかを決めるのは、とても難しいでしょう。問題はね、一人ひとりがどうやって決めるかということですよね。一人ひとりが決めて、自分自身の言葉で表現しないといけないかなと思うんですよね。
戦時中、正しいと思っていた言葉がひっくり返ったわけです。だから言葉っていうものの危うさを、私はとても感じます。同時に刃は使っちゃいけないと、もう絶対に思っています。
物語の中でいろんなファンタジーがあるけれど、たいてい生と死とか、闇と光とか二つに分かれて闘うものが多いんですよね。そういうものは、私は書きたくない。二つに分けることはしたくないし、できないでしょう。その間にある、形のないものっていうのが、すごく大事なわけです。
――「トンネルの森」を読むと、戦争中に少女の周りで知っている人が一人また一人と亡くなっていく、その子どもの目線の喪失体験が、読んだ人の言葉を作るのかなと感じました。
そうですね。だから本を読んでもその空間にある、読んでいる隙間みたいなものにある時間というものに、読む人は必ずイマジネーションを持つわけですよね。そこから生まれるね、自分なりの考え方、それが大事だなって。
日本人は農耕民族だから、隣同士仲良くする必要があった。隣の人と一緒の意見にすることで安心したいっていうのはあるけど、でもそんなことしていると、ずるずるととんでもないところにいってしまう可能性もある。
だからやっぱり一人ひとりがしっかりした自分の言葉を持ってほしいなとは思いますね。それを持てるのが読書だと思います。
昔はね、子どもはいろんなところに遊びに行って、虫を見たり、ザリガニやトンボを取ったりして発見の喜びがあったじゃないですか。今の子どもには通学路もいろいろ規則があって発見の喜びはあまりないかもしれない。だけど、本に、物語の中に、それがあると思っています。
だから、文学館では「物語」にフォーカスしたわけです。でもドキュメントでも物語がある。例えば(生き物の)クモっていう表題の本があったとしても、クモ自体の中に物語を感じられるもの、そういう本を集めたいと思いました。図鑑でも物語があるんですよ。
「いたずら書きの散歩」って私は言っているんですけど、本にはそういう隙間があると私は思っています。
今の子どもたちを見てると、目的のない遊びってあんまりないでしょう。だから目的のない遊びを本の中に見つけてほしいの。
――自分の想像力で。
そうそう、自由にね。だから本棚から自由に持ってきて、その本の中で関連するものを見つけたいと思ったら、探せばいい。
「魔女宅」への思い
――「魔女の宅急便」発行からまもなく40周年です。角野さんを世界中に知らしめた、この本についてはどう考えていますか。
世界中に知らしめたのは宮崎(駿)さんでしょう(笑)。でも、おかげをもってキキとジジのことは世界中の皆さんが知ってる。ドイツで隣り合わせた男の子が知ってましたね。だから相当、認知されているんじゃないですか。
――(ジブリ作品で)確かに原作のストーリーは凝縮されていますが、キャラクターには角野さんの創作が際立っています。
キャラクターはね、本のキャラクターですから。それは意外と映画の中でも生きていると思います。ただ、話はだいぶ違いますけどね。
――長く読み継がれています。
そうね、刊行されて40年だから、読者は子どもから年配の人まで。3代は確実ですね。4代の方がちらほらって感じです。
「自由でなくちゃ何も生まれない」
――角野さんが、進むべき道が分からないとか、ここではないどこかへ、と迷いながらもとにかく前に進んで来られたのはなぜでしょうか。
好奇心。好奇心というのは想像力と両輪ですからね。だから、「何か見たい」とか、それは強い方だと思いますね。
――自分は何がしたいんだろうと悩んでいる大人がいたとしたら、どういう言葉をかけますか。
そうねぇ。やっぱり自分で何か見つけなくちゃね。だって人に言われても嫌なものは嫌じゃない。とかく、人と同じになりがちだけどやっぱり自由に何か見つけなくちゃ、一人ひとりが自分のこととして見つけなくちゃね。自由じゃなくちゃ何も生まれない、と私は思ってるから。
――35歳ぐらいで「ルイジンニョ少年」を書く時に、若干の「焦り」みたいなものがあったと話していました。
子育ての時ですね。その当時は、今のイクメンとか、そんなものないんですから。保育園もない。で、高度経済成長期だから、男の人はみんな外で働いてるわけですよ。だから小さな、まだよちよち歩きの子と家でずっと2人きりでいると、何か自分にできること、いきいきと生きていけるものが欲しいと思いましたね。
子どもはかわいいし、育てるのは必死だけど、自分を失いたくないっていう気持ちはずっとありました。
――そういう時も好奇心を持ち続けることが大事なんですね。
そうですね。好奇心はイマジネーションを駆り立てるしそういう気持ちはものを作ることのもとですから。イマジネーションって「想像」っていうけど、クリエーションの「創造」につながるものですよね。
2024年にやりたいことは
――2024年の抱負について教えてください。角野さんはどんなことしたいですか。旅で行きたいところはありますか。
それは行きたいですよ、旅に!(笑)でも89(歳)になっちゃうと、一人じゃ無理よね。そうするとやっぱり、お願いしますって誰かに付いてきていただかなくちゃならないでしょう。やっぱり一人旅がしたいわね。でも散々したから、私。だから大丈夫、散歩ぐらいでも大丈夫。
――書くことについての抱負はいかがですか。
書きたいとは思っていますね。今年(2023年)は短いものはいくつか書きましたけど、忙しくてちょっと長いものが……だから90になるまでに長編を出せたらいいなって。