窮屈になった日本。気になるのは「女性問題」
――平成のほぼ30年、離れていた日本は、いまブレイディさんの目にどう映りますか。
一言でいうと、窮屈になった。帰国するたび、そう感じますね。
様々な現場で若い人たちを取材したことがあるのですが(『THIS IS JAPAN』太田出版)、仕事でも人間関係でも、生きづらさを自分のせいにする。自己責任論というやつですね。
どうにかなるという楽天的なところも感じられない。私も若いころ、めちゃくちゃ貧乏だったけど、もう少し楽天的でした。今の、この時代を覆う空気なんでしょうね、きっと。
それから気になるのは、女性問題。英国にいると、特に去年くらいから、女子学生を不利にする医学部入試とか、相撲の土俵に女性が上がれないとか、女性が虐げられた国・日本、というニュースばかり目に入ります。海外メディアにとっては、いかにも日本っぽいという話題で、飛びついている面もあるでしょうけど、悲しいのは、「いや、それはウソです」と言えないことですね。
――確かに。反論できない。
いまの日本で何がいちばんダメかといえば、経済と女性問題です。この問題をどうにかしていくには、フェミニズムのありかたを考え直すべきじゃないかと思う。
男性社会で差別はいろいろあったし、つらい目にあったけど乗り越えた。私=グレイト、だからあなたも頑張れ――こんな新自由主義的な発想では、逆に個人が生きづらくなると思う。もっとソーシャルなフェミニズムを作りだしていかなければいけないのでは。世界的に広がった「Me Too」の運動だって、そういう方向でしょう?
フェミニズムといって語弊があるなら、シスターフッド(女性同士の連帯)と言い換えてもいい。つらいことをなくしていこうよ、という社会制度を変えていく方向への転換は、一人じゃ絶対無理ですから。
最近、韓国の女性作家の「82年生まれ、キム・ジヨン」っていう本が売れているじゃないですか。知りあいに聞いたら、あれを読んだ韓国の女性はみんな怒った。でも日本の女性は泣いたと。これが示唆するものは大きいと思う。泣いて終わってたら、しょうがない。涙が乾いたら明日からがんばろうじゃ何も変わらない。やっぱり、みんなで怒らないと、誰もビビらないですよ。
――でも以前、フェミニズムって「おっかない」と感じていたと書いていましたよね。
ええ、そう思ってました! 私なんか、きっと怒られるって。だから最近まで直接的には書かなかったんです。
やっぱり、フェミニズムが学問になってしまって、第一波がこう、第二波がこうと(笑)。そんなことを知らない学のないおまえが言うな、と言われそうだから発言しちゃいけないのかな、と思ってた。
でも、これからの女性の運動は、フェミニズムのフェの字も知らないような人が「私もつらい」「おかしいと思う」と声をあげる、あげてもいいんだ、と思えるものにしないと実際には何も変えられないと思う。女だからといって、何でこんな目にあわなきゃいけないの?と誰もが言い出せる勇気をもらえるものにしないと。
フェミニズムも左派も、よく分裂しますよね。左派は思想や理念で分裂するのが宿命だとよく言われますけど、でも女性であるということは思想や理念じゃないですよね。事実であり、現実です。なのに無駄に分かれて行ったら、それだけ声が細く小さくなって行く。
そもそも女性って数的にはマイノリティでも何でもないですよ。世の中の半分、しっかり生きているんですから。これが何で、いまだにマイノリティということになってるのかが問題であって。
もちろん個人であることも大事ですよ。だれかと同じになれ、って上から言われたら、私はぜったいイヤだし、まず、なれないし。個人でありながら、そのうえで、ゆるやかに連帯する。個人的なものとソーシャルなものはいつも対立する概念でもないですよね。私が私として生きられるようにするために連帯して闘うこともある。要するに、このバランスが大切なんですよね。
――萎縮し、閉塞する一方の、日本社会へのメッセージは、ありますか。
不確実な時代って、みんな正しい答えをほしがります。迷ったり、間違ったり、道を踏み外したりすることを恐れる。そういう機運が、ますます閉塞を強める。だから、そういう時代こそ「迷ってやる」くらいの気持ちが必要じゃないかな。
自ら迷いながら、探していく。ネットに答えなんか載ってない。だから、ここだけが世界だと思わないこと。迷っているあいだに、まったく違う世界が見つかるかもしれない。
今ある世界が、すべてじゃない。どんどん違う世界に出ていけばいいと思いますよ。
最近、100年前に生きた日英の3人の女性、アナキストや運動家のことを本に書いたのですが(「女たちのテロル」、岩波書店)、いまの時代にアナキズムが必要だとすれば、「鋳型にはまるな」っていうことなんだと思う。人がつくった鋳型にはまるな。今ある鋳型を信じるな。これだけ世界が大きく変わっている時代です。これまでの鋳型を信じてやっていても、しくじる可能性が高いですし(笑)
――今後のお仕事は。
私は自分が論客とは思っていません。なりたいとも思っていない。現場を大切にしたいのもあるし、何が書かれているかよりも、「どう書くか」のほうが気になるということは、書き始めた頃からずっと言ってきた。物書き、ですよね。明確にそうありたい、と思っています。
ただ、小説とかノンフィクションとか評論とかエッセイとかルポとか、ジャンル分けが細かすぎると思うことがよくあります。形式にこだわりすぎというか別に、ぎちぎちに分けなくてもいいんじゃないかと。ジャンルをクロスオーバーしていると、邪道というか、イロモノ扱いもされますけど、窮屈なところにはまり込むより面白いと思います。
先日、詩人の伊藤比呂美さんと会ったんですが、彼女は詩だけでなく、エッセイや小説も書かれていますけど、「私の書くものすべてが詩だ」と仰ってます。
僭越ながら、その感覚はわかる気がする。と言っても私は詩人じゃないので、「私」がジャンルということにしておきますか。なあんて。(おわり)
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●ブレイディみかこさん プロフィール
保育士、ライター、コラムニスト。1965年福岡市生まれ、高校卒業後、渡英を重ね、96年からブライトン在住。本文中で紹介した著書のほか、「花の命はノー・フューチャー DELUXE EDITION」(ちくま文庫)、「アナキズム・イン・ザ・UK」(Pヴァイン)、「ヨーロッパ・コーリング」(岩波書店)、「子どもたちの階級闘争」(みすず書房、新潮ドキュメント賞)、「労働者階級の反乱」(光文社新書)などがある。