朝鮮中央通信が7月28日に配信した22枚の写真群は、「わが身を顧みず、人民のために奔走する最高指導者」の姿をアピールするものだった。金正恩氏は濁流のなか、乗用車で被災地を見て回った。ヘリで救助されてきた北朝鮮の人々を自ら出迎えた。
だが、北朝鮮を逃れた元朝鮮労働党幹部は、写真群をみて嘆息した。「最高指導者を危険な場所に行かせることは絶対にない。金正恩の前に濁流に入って、安全を確認した担当者が必ずいる」
ヘリで運ばれた被災者たちは走りながら両手を上げ、遠くで見守る金正恩氏にあいさつした。元幹部は「これも演出。事前に最高指導者がいることを伝え、あいさつするよう指示しているはずだ」と指摘する。「金正恩が報告を受けて現地に到着するまで24時間から48時間はかかる。場合によると被災者はサクラだったかもしれない」という。
金正恩氏は今回の災害で国や地方の幹部らを強く批判。社会安全相を更迭した。ただ、この人事も場当たり感が否めない。
今回の水害は中朝国境を流れる鴨緑江が氾濫したのが原因だとみられている。
鴨緑江を巡っては、昔から中国が「北朝鮮が不法に取水している」と批判してきたため、北朝鮮は地下トンネルを作って、目立たないように取水してきた。トンネルのため、流せる水量に限界があったとみられる。また、北朝鮮は金日成主席の時代に灌漑(かんがい)施設を整備。「朝鮮では日照りも洪水もない」と自画自賛したことがある。最高指導者の承認なく、こうした施策は取り得ない。まず、金正恩氏自らが責任を問われるべき問題だと言えるだろう。
一方、金正恩氏は8月2日、災害救難に従事したヘリコプター部隊を訪問した。その際、「現在、敵(韓国)のくずメディアは我々の人命被害が1000人または1500人を超え、救助任務中に数機のヘリが墜落したと捏造された世論を流している」と非難。「敵は変わり得ない敵である」と述べ、韓国が表明した災害支援を拒絶する考えを示した。
正恩氏は昨年末、韓国を「敵対する二国家の関係」と位置づけた。韓国から流れ込む情報や文化の影響が無視できないほど深刻な影響を与えているという背景がある。
元幹部は「おそらく、金正恩自身も正確な被害状況はわかっていないだろう」と語る。北朝鮮当局は物的な損失はともかく、人命被害には極めて敏感だ。災害で多数の人が亡くなったことで、過去には公開処刑になった幹部もいる。元幹部は「人命被害は、民心の怒りを買いやすいからだ」と説明する。「当然、担当者たちは金正恩の怒りを買わないよう、被害をできる限り小さく報告しているはずだ」という。金正恩氏の「捏造」発言は、敵視する韓国からの「被害報道」に怒りを爆発させたということなのだろう。
ただ、北朝鮮の人々がおしなべて、金正恩氏と同じ感情を持っているわけではない。2011年7月に脱北し、昨年8月には国連安全保障理事会で証言した韓国・北朝鮮研究所の金日奕(キムイルヒョク)研究員(29)は、北朝鮮が民族統一政策を放棄したことに失望している北朝鮮の人は多いと語る。金氏は「北朝鮮は生活が苦しいため、戦争でも起きればよいと考える人もいます。統一は、苦しい今の状態を変えてくれる望みの綱です。北朝鮮の人々は金正恩を恨んでいるでしょう」と話す。
現在、開催されているパリ五輪でも、ちょっとした変化が見て取れる。
北朝鮮は新型コロナウイルスの感染拡大を理由に前回東京大会と、2022年の北京冬季五輪をボイコットしたため、8年ぶりの五輪参加になる。
7月30日、卓球混合ダブルスで、中国が金メダル、北朝鮮が銀メダル、韓国が銅メダルをそれぞれ獲得した。表彰台で韓国の選手がスマートフォンで6人の自撮り写真を撮った。北朝鮮のペアは日本の張本智和、早田ひなペアを初戦で破って注目されていた。北朝鮮の2人は撮影を拒否せず、男子のリ・ジョンシク選手は硬い表情だったが、女子のキム・クムヨン選手は笑みも浮かべていた。
また、両選手は観客席で外国人観客による自撮り撮影にも応じた。中国のSNSには、選手村で交換したたくさんのバッジをつけた体操女子北朝鮮代表のアン・チャンオク選手の写真も投稿された。
彼らが今後、どのような扱いを受けるのかはまだわからない。労働新聞は8月1日付で、卓球の混合ダブルスでリ選手とキム選手が銀メダルを獲得したと伝えた。北朝鮮の体育事情に詳しい脱北者は「スポーツの成績で不利益を受けることはないが、日米韓のように政治的に対立している国の選手と談笑したり、交流したりすると政治的に批判される可能性がある」と語る。
ただ、観衆の視線が集まる公共の場所で、しかも、「平和の祭典」と位置付けられた五輪の場で、政治的な態度を取ること自体、国際社会からの批判の対象になりかねない。元幹部は「銀メダリストであれば、本来は帰国後に表彰される対象だ。労働新聞もまだ状況を十分把握しないうちに報道したのかもしれない」と語る。北朝鮮による「韓国敵視政策」が混乱を生み、五輪代表選手らへの指示が徹底していなかった可能性もある。
リ・ジョンシク選手たちが平壌に戻ったとき、どのような扱いを受けるのかは、まだわからない。