これが事実なら、北朝鮮が独裁体制を放棄する過程に入ったことになる。脱北した元北朝鮮高官は「朝鮮は絶対、第2人者は作らない。作れば独裁が崩壊する」と語る。別の元高官も「朝鮮では委任分業という言葉は使うが、統治を人に渡すことはない。人脈も経験も不足した金正恩が仕事を、部下に任せることはあるが、独裁は変わらない」と語った。
ただ、国家情報院が「委任統治」という言葉を使いたくなる異変が、最近の北朝鮮で次々に起きている。一つ一つは小さな現象だが、これまでになかった動きで、あるいは深刻な意味を持つのかも知れない。
■急減する現地指導
異変の第一は、正恩氏の現地指導を巡る変化だ。朝鮮中央通信は7日、正恩氏が黄海北道の水害状況を視察したと伝えた。日韓などでは正恩氏がトヨタ自動車の高級車ブランド「レクサス」を運転したことに注目が集まった。
同通信は正恩氏の視察について「現地了解」という言葉を使った。朝鮮中央通信は8月28日朝にも、「金正恩委員長が黄海南道の台風被害地域を訪れて、被害状況を了解した」と報じた。
この単語を最高指導者の視察で使うのは極めて異例だ。北朝鮮関係筋は「最高指導者の視察では通常、現地指導という言葉が使われる。ただ、指導する以上、最高指導者のお陰で成果が出たという格好が必要だ。現地了解というのは、単なるお見舞い・慰問という意味しかない」と語る。
韓国統一省は8月25日の国会報告で、北朝鮮が国際社会の経済制裁や新型コロナウイルスの感染拡大に伴う国境閉鎖措置、最近の水害といった三重苦に直面していると説明した。北朝鮮の対外貿易の9割以上を占める対中貿易の今年前半期総額は約4億1千万ドル(約437億円)で、前年同期から67%も減少した。
経済事情の更なる悪化で、金正恩氏が現地指導したくても、成果を出せる場所がないというわけだ。昨年までは成果を出しやすい比較的小規模な事業所などを訪れて取り繕っていたが、最近ではそれも厳しくなっている。
典型が金正恩氏が5月1日に視察した平安南道の順川リン酸肥料工場だ。過去、最高指導者が新しい工場を訪れる際は、生産を実際に始めるタイミングに合わせていた。その方が、最高指導者の恩恵をアピールできるからだ。同筋は「生産のメドが立たないので、竣工式でお茶を濁した可能性がある」と語る。
実際、新型コロナの影響や自身の健康問題もあるのかもしれないが、正恩氏の現地視察の回数は急減している。代わりに、幹部会議や行事への出席で埋め合わせをしている。
19日に開かれた党中央委総会も「厳しい内外情勢が続き、予想外の挑戦が重なったことに合わせて経済事業を改善することができず、計画された国家経済の成長目標が未達成となり、人民生活が向上しない結果も生まれた」とする決定書を発表。16年から始めた国家経済発展5カ年戦略の失敗を認めた。
そして第2の異変は、金正恩氏が会議に出席した際の様子に現れている。
■公式発表の言い回しに変化
朝鮮中央通信は、朝鮮労働党中央委員会政治局会議が13日、平壌の党中央委員会本部庁舎で行われ、金正恩党委員長が司会を行ったと伝えた。「正恩氏が会議に出席し、司会した」という表現は6月7日の党政治局会議、7月2日の党政治局拡大会議などでも使われた。8月25日に開かれた党政治局拡大会議では、正恩氏が「会議を運営した」という表現を使った。
これらの表現も異例のことだ。従来、北朝鮮の最高指導者が会議に出席した場合、「会議を指導した」と伝えられてきた。昨年12月末に開かれた党中央委員会総会も「金正恩委員長が総会を指導した」とされた。国家情報院は8月20日の国会説明で「委任統治」の理由の一つとして、責任を分散して回避したい金正恩氏の思惑があると説明した。確かに、会議で決めた経済目標が達成できない場合に備え、「俺は会議を司会しただけだから」と言い逃れをする準備をしているのかもしれない。
経済運営の失敗を認めた8月19日の党中央委総会でも、同通信は、金正恩氏が会議に参加、司会したと説明。総会で発表された決定書が国家経済発展5カ年戦略の失敗を認めたが、正恩氏は同戦略について「結果について解説した」だけだった。
異変の第3は、幹部の頻繁な入れ替えとその変化だ。典型が正恩氏の有力な側近の1人である李万建(リ・マンゴン)氏を巡る人事だ。李氏は今年2月の政治局拡大会議で不祥事の責任を取らされる形で党組織指導部長を解任された。複数の北朝鮮関係筋によれば、李氏はその後、平壌総合病院の建設総責任者に任命された。
だが、朝鮮中央通信は7月20日、金正恩氏が病院建設の遅れに激怒し、責任者ら全員の更迭を命じたと報じた。そして、今月、李万建氏は開城市への水害救援物資を伝達した際、党第1副部長の肩書で登場して演説を行った。脱北した元北朝鮮高官の1人は「2度も失敗しても党中央にいるなど、昔ならあり得ない人事だ」と語る。別の1人は「国民の不満は高いが、経済をすぐ好転させられない。更迭人事で不満をそらすしかないが、いちいち粛清していたら、幹部のなり手がなくなる」と嘆く。
このほかにも、昨年4月の最高人民会議で首相に選ばれた金才竜(キム・ジェリョン)氏が8月13日の党政治局会議の際、1年半足らずで解任された。
■消えた米韓非難
異変の第4は、韓国や米国に対する非難を避けている現象だ。北朝鮮は6月、南北連絡事務所を爆破したが、直後に韓国に対する軍事挑発活動を保留した。その後、8月18日から米韓合同軍事演習が始まったが、北朝鮮は沈黙を続けている。19日にあった党中央委員会総会でも、米韓に対する非難はなかった。
昨年8月20日付の労働新聞は、昨年度の演習については「我々を侵略するための公然たる敵対行為であり、容認できない軍事的挑発だ」「我が国を不意に先制攻撃するための侵略戦争演習だ」と口を極めて非難していたことと対照的た。
こうした細かな異変をつなぎ合わせ、おそらく国家情報院は「金正恩が委任統治を行っている」という分析を導いたのだろう。だが、その目的が「責任回避」にあるのなら、この結論は矛盾する。責任を逃れたいという心理は、権力欲の裏返しだからだ。
北朝鮮は19日の党中央委総会で、来年1月に党大会を開くことを決めた。過去の党規約には「党大会は5年ごとに開く」としており、2016年5月の前回大会からやや短い間隔での開催になる。また、現行規約には「党大会の開催は6カ月前に発表する」とあり、準備期間が足りない。
日米韓の北朝鮮分析者たちはこれについては、主に来年1月の米大統領選の結果をみて、一日も早く新たな対米方針を決めたい心理の表れだと分析している。
ただ、同時に党大会など大型の行事を開いて国民の不満をそらしたい思惑もありそうだ。制裁とコロナで北朝鮮が頼ってきた中朝貿易は急減し、物価高や食糧不足の危機が迫っている。党大会の準備段階では、代表者を決めるために大規模な思想点検作業も行われるため、国民を統制できる。米韓を批判しないのも、緊急性が高い内政分野に集中したい北朝鮮のお家事情が作用しているのかもしれない。
最後に、国家情報院は8月20日の国会説明で、「金与正氏は正恩氏から多くの委任を受けているものの、後継者としては決まっていない」と説明した。正恩氏は権力を維持するため、決して与正氏にナンバー2としての座、例えば党第1副委員長などの席は準備しないだろう。
最近も7月26日に平壌の党庁舎で行われた主要指揮官への記念拳銃授与式でも、与正氏は正恩氏による授与のお手伝いをしていた。北朝鮮元高官の1人は「後継者や第2人者なら、カリスマを作る必要があるから、あんなことは絶対にやらせない」と語る。
金与正氏は、正恩氏の数少ない肉親であり、特別な存在だ。党大会では、北朝鮮での政治権力のシンボルでもある党政治局員への昇格程度にとどまりそうだ。