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「間違いは犯さない」金正恩氏はなぜ韓国に謝罪したのか

北朝鮮インテリジェンス
板門店で、軍事境界線を一緒に越える韓国の文在寅大統領(右)と金正恩朝鮮労働党委員長=2018年4月、韓国共同写真記者団撮影

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は9月25日、「我が方の水域で思わぬ不始末な出来事が発生し、文在寅大統領と南側の同胞に大きな失望感を与えたことを非常に申し訳なく思う」と謝罪した。

事件は、金正恩氏の謝罪の前日に公になった。韓国国防省は9月24日、朝鮮半島西側の黄海で、違法操業の取り締まり中に行方不明になっていた漁船指導船の乗組員が北朝鮮の軍当局者に射殺されていた、と発表した。北朝鮮当局が男性の遺体に火をつけたという。文在寅大統領は同日、「いかなる理由でも容認できない」とし、北朝鮮に責任ある説明と措置を求めていた。

また、韓国側は文大統領と金委員長が9月、親書を交換していた事実も公表した。文氏が9日、北朝鮮を襲った水害を見舞う親書を送った。

これに対し、金正恩氏は12日、「久しぶりに私に届いた大統領の親書を読みながら、文書にあふれる心からの慰労に深い同胞愛を感じた。大統領が重い責務のため健康を保つことを忘れるのではないかと心配だ」といった内容だったという。

北朝鮮の最高指導者が謝罪した例は過去、金日成主席が「遺憾の意」を示した1976年のポプラ事件や、金正日総書記が2002年9月の日朝首脳会談で、日本人拉致を認めて謝罪した例くらいしかない。

ポプラ事件では、北朝鮮兵が米軍将兵を殺害したことで米朝関係が極度に緊張した。金主席の謝罪は、米軍による攻撃を避ける狙いがあった。金総書記の謝罪は、日本から巨額の経済支援を得るためのものだった。金正恩氏の謝罪には、厳しい国内事情と北朝鮮自身の対外戦略が影響しているようだ。

いわゆる「ポプラ事件」の現場写真。板門店の共同警備区域内で、雑木の枝を払う作業中の韓国人労働者と、それを警備していた米韓両軍の警備将兵に、北朝鮮軍が近づき、枝を切るなと口論になった。米将校2人が北朝鮮兵に殺され、米・韓将兵9人が負傷した=韓国大使館提供

北朝鮮は今、国際社会による経済制裁、新型コロナウイルスの感染防止のための国境封鎖、8月から9月にかけての大規模な水害という「三重苦」に苦しんでいる。北朝鮮の貿易の9割以上を占める対中国貿易は、今年上半期の時点で前年よりも6割以上も減った。外貨不足や国境封鎖措置が影響しているようだ。

8月上旬の大雨と、8月から9月にかけて朝鮮半島を襲った3個の台風による被害も深刻な事態に陥っている。ただ、北朝鮮メディアは被害の全容は伝えていない。台風9号による被害を受けて9月8日に開かれた労働党中央軍事委員会拡大会議も、咸鏡南道剣徳地区の被害状況を報告しただけだった。脱北した元北朝鮮高官は「被害は広範囲で深刻な状況だと聞いている」と語った。

また、朝鮮中央通信は9月15日、金正恩氏が水害の復旧を終えた黄海北道金川郡江北里を視察したと報じた。公開した映像や写真では、クリーム色の壁と紅色の屋根で整えられた住宅街のほか、3階建てのアパートや4階建ての小学校などが映っていた。

ただ、元高官らによれば、この地区は8月初めの水害発生前から建設作業が始まっていた。水害が深刻だったのは、正恩氏も視察した同じ黄海北道銀波郡だった。朝鮮中央通信が9月12日に伝えた視察の写真では、まだ外壁の塗装も終わらず、窓ガラスのはめ込みもこれからという状態だった。

「水害の復旧を終えた」という黄海北道金川郡江北里を視察する金正恩氏ら。朝鮮中央通信が15日報じた=労働新聞ホームページから

北朝鮮は10月10日に、今年最大の行事と位置づける労働党創建75周年を迎える。朝鮮中央通信は9月30日、金正恩氏らが参加する党政治局会議が29日に開かれたと報道。「前例のない災難と災害危機の中でも党創立75周年を全人民的な慶事として盛大に祝い、国家経済発展5カ年戦略(2016~20年)を終える今年を勝利のうちに締めくくる」と改めて訴えた。

金正恩氏は繰り返し、10月10日までに復旧作業を終えるよう指示しており、国内に全く余裕がない状態だという。水害と無関係な地区を「復旧の成果」と紹介したのも、復旧を焦っている証しだろう。

北朝鮮は独裁国家であり、悪化する世論を気にすることはないだろう。ただ、多くの軍人を復旧作業に投入している事情もあり、安全保障環境の悪化を嫌った可能性がある。

そして、北朝鮮は来年1月に党大会を控えている。そこでは新たな経済発展5カ年計画を発表しなければならない。北朝鮮にとって今は、11月の米大統領選の結果を踏まえ、新しい戦略を定めるための準備期間であり、国内政治に集中する時期にあたっている。

米国と韓国との関係を担当している金与正氏が7月末から10月2日朝の朝鮮中央通信の報道で確認されるまで、公式の席に出てこなかったのも、北朝鮮が10月10日の労働党創建記念日まで国内政治に集中していたことの証しでもある。南北関係を長く担当した韓国政府元高官は「北朝鮮の公式メディアは宣伝扇動の手段。金与正を出さないのは、米国や韓国との関係を動かす必要がないと考えているからだ」と語る。

朝鮮戦争休戦の日にあたる7月27日、平壌で開かれた全国老兵大会=労働新聞ホームページから。この行事の後、10月2日に報じられた金正恩氏の現地指導随行まで金与正氏は公式の席に登場していなかった

当然、金与正氏は事件を知らなかっただろう。自ら姿を消すことで、北朝鮮が国内問題に集中している時期だと自覚していた与正氏が、南北関係を危うくする指示を出す理由がないからだ。

そして、金正恩氏が韓国に謝罪したのは、国内政治に集中している時期に対外的な難題を抱え込みたくない思惑があったとみられる。謝罪の中身を見れば、正恩氏自身の過ちも、国際社会が非難を集中させている「遺体を焼いた」という行為も認めていない。対外関係を混乱させたくない意図が透けて見える。

実際、韓国の情報機関、国家情報院は国会での説明で、今回の射殺事件は金正恩氏の指示ではないとの見方を示した。元高官らによれば、北朝鮮は新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、中朝国境線から1キロ以内に無断で近づく人間は無条件で射殺するよう指示が出ているという。

元高官は「開城市では7月、戻ってきた脱北者を発見できなかった軍地方幹部が更迭された。再び、叱責されないよう、現地の判断で射殺したらしい。遺体を焼いたのも、防疫のためだろう」と語った。

韓国側の説明では、北朝鮮軍は9月23日午後3時ごろに漂流する韓国人を発見し、午後9時ごろに警備艇に乗ってやってきた兵士が射殺したという。現地司令部の指示を待っていたとみられる。6時間は短くない時間だが、洋上から無線を使えば、米韓両軍に盗聴される可能性がある。地上の司令部と人が往来する必要があり、時間がかかったのだろう。

では、金正恩氏が文在寅氏に送った親書は、どう読み解けばよいのか。

北朝鮮は6月16日、開城市にある南北連絡事務所を爆破した。北朝鮮では最近、金大中政権が始めた太陽政策の効果もあり、韓国の文化や製品にあこがれる風潮が蔓延していた。爆破は、こうした風潮を「敗北主義」として懸念した金正恩氏が指示したもので、北朝鮮内では最近、韓国製品を没収したり、脱北者の家族を厳しく監視したりする現象が起きている。

その一方で、北朝鮮は6月末から韓国への批判をずっと控えていた。国内事情が厳しいなか、対外関係をこれ以上混乱させたくない意図があったのだろう。11月の米大統領選でトランプ大統領が再選されれば、米朝協議が進んで、韓国から大規模な経済支援が得られる環境が整うという計算もあったのかもしれない。

金正恩氏の親書はこうした思惑を込めたものだとみられる。親書の中身は、言葉こそ丁寧だが、具体的な提案は何もない。情勢を管理する意図以外のものは何も感じられない。

ただ、自国民を殺された韓国世論は硬化している。文在寅政権が従来の南北政策を推進するためには、相当な時間もかかりそうだ。今回の事件は、金正恩氏の足を引っ張り、北朝鮮を更なる窮地に追い込むことにもなりかねない。