オランダは2002年、国として世界で初めて安楽死を合法化した。適用対象を身体的な苦痛や病を抱えた人に限定する国が多いなか、精神疾患も安楽死の正当な理由として認めている。
17歳から精神疾患で入退院 安楽死が認められ「解放」
8月上旬、中部スストに住むエレン・ブケマさん(63)を訪ねた。エレンさんは夫ロブさん(67)と4人の子どもを育てた。迎え入れてくれたリビングの棚には、2年前に33歳で亡くなった長女エスターさんの遺品が飾られていた。「娘にはどこかに閉じ込められている感覚がいつもあった。安楽死が認められてようやく解放された気持ちになったのです」
エレンさんはそう言って、安楽死の措置を2週間後に控えた頃に撮影したというエスターさんの写真を見せてくれた。朝焼けを背景にお気に入りのぬいぐるみを抱えたその顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
エスターさんは17歳の時に摂食障害から精神疾患になり、入退院を繰り返すようになった。エレンさんとロブさんは他の3人の子どもを育てながら、少しでもエスターさんに効果的な治療をしてくれる医師を探してオランダ中を駆けまわった。それでも、エスターさんの自殺願望はおさまらず、自傷行為も絶えなかった。
娘が2012年に安楽死を申請すると決めたとき、エレンさんはエスターさんの決心を受け入れた。
「看護師として働いていた経験があるから、すべての病気がうまく治るわけではないと理解していた」
しばらくして安楽死を実施するクリニックに連絡したが、正常な判断能力がないとされ、閉鎖病棟に入院させられた。
その後も症状が劇的に改善することはなく、エスターさんは安楽死の措置を受けることを、2019年に再びエレンさんら家族に伝えた。
「ひとりぼっちではなく、逝けた」母親の思い
安楽死の措置を受けることになったのは約2年後の2021年12月10日。エスターさんはその日までの最後の6週間を両親のもとで暮らした。
その間は、弟や妹らもできる限り時間をつくり、実家を訪れた。エレンさんは「とても充実した時間だった。家族全員で、別れを迎えるまでの過程は本当に美しかった。共に素晴らしい思い出をつくった。それがどれほど小さい思い出でも、とても大きな意味を持つ。誰もが自分なりの方法でエスターに別れを告げた」と振り返る。
別れの日。独立していた子どもたちとそのパートナーたちが実家に来て、久しぶりに家族全員が集まった。エスターさんは朝早くに目を覚まし、両親と一緒に近くを散歩したり、家族全員とジグソーパズルをしたりしながら、その時を待った。そして、最後にもう一度だけ、みんなとハグをした。全てを語り尽くしていたので、それだけで十分だった。午後2時半。安楽死の措置を担当する医師がやって来た。
エスターさんはお気に入りの服に着替え、両親の靴下を片方ずつはいた。そして、家族全員と抱擁を交わし、自作の詩を読んだ。「私が死ぬとき、あなたにそばにいてほしい……そうすれば私は静かに逝ける、みんなが悲しまずに済む」
子どもの頃から使っている2階の自室に上がり、ベッドに横たわった。エスターさんの隣にエレンさんが体を横たえ、ロブさんと弟が手を握り、最期を見届けた。
それから2年近くが過ぎた今も、エレンさんの胸にあるのは後悔でなく満足感だ。ただ、15年以上闘病を続けた娘の願いをかなえてあげられた安心感と娘を失った悲しみの入り交じった感情に、毎日のように襲われる。
エレンさんは安楽死について、「全ての人が、尊厳ある最期を自分で決められることは重要だと思う。制度があるからといって誰でも措置を受ければいいとは思わない。取り返しのつかない選択だから、慎重に行われることが大切。エスターは自死でなく、安楽死を選んだことで、ひとりぼっちではなく、彼女を愛する人々に囲まれて逝くことができた」と話す。
75歳以上でも可能に? 国会で議論続く
国の統計によると、オランダで昨年実施された安楽死は8720件。制度の開始当初に比べて約2.5倍に増えた。死亡理由に占める割合はここ数年、4~5%程度になっている。
2019年の国の世論調査では、87%が安楽死に賛成した。不治の病の子どもや重度の精神疾患を持つ人に対する安楽死を肯定する割合は75%で、認知症の人の安楽死も8割が妥当だと答えた。
エスターさんの安楽死の可否についてセカンドオピニオンを担当した精神科医メノー・オーステルホフさんは精神疾患の人への安楽死の適用が難しいことを認める。自死に対する願望そのものが疾患の症状の場合があり、病を治療できればその願望自体が消えるからだ。
回復の見込みがないと診断することは容易ではないと認めた上で、医師としてその診断を下すことから逃げてもいけないとし、オーステルホフ医師は「医師が患者の死を望む気持ちを無視して、希望だけを与えようとするのは、本人の苦痛を長引かせるだけの可能性もある」と語る。
オーステルホフ医師とともに精神疾患を理由とした安楽死で子どもを亡くした親の支援活動に取り組む児童精神科医のキット・ファンメヘレンさんは「末期がんのように治療できない精神疾患もある。医師は患者に奇跡を待てとは言えない」と話した。
対象をさらに広げる議論もあり、75歳以上であれば疾患がなくても安楽死を認める法案は2020年に下院を通過した。今は上院での議論が続いている。
オーステルホフ医師も「厳格な医師の診断のもとで行われてきた安楽死の制度をゆがめかねない」と反対する。