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安楽死の議論、日本で深まらない理由 忖度文化で起こりうる「死ぬ義務」化への不安

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静岡大名誉教授の松田純さん
静岡大名誉教授の松田純さん=2023年7月、辻外記子撮影

――世界で初めて安楽死を認める国はオランダで、2001年に法が成立しました。こうした動きはなぜ、でてきたのでしょうか。

オランダでは、病気で苦しむ患者の「死なせてほしい」という切実な願いに応えてきた医師が殺人罪に問われる裁判の積み重ねがあり、その中で安楽死を認める要件が示されてきた経緯があったからでしょう。

日頃から患者を診ている「家庭医」が定着していた背景もあります。苦しんでいる患者が「死にたい」と願うと、家庭医は、「なんとかしてあげたい」と思うようになります。

患者との信頼関係があってこそ、「命を救う」という本来の使命を越えてでも、患者のために苦しみを終わらせたいという思いが医師たちにあったのでしょう。

――「死ぬ権利の中身がどんどん拡大している」と指摘されています。

「肉体的にこれほど苦しいならば、死なせてほしい」と望む気持ちを否定はしません。しかし、安楽死の対象は、肉体的な苦しみから、精神疾患や認知症、年をとっていくつもの病気が重なる老年性複合疾患による持続的な苦しみにまで拡大する動きが、欧州では出てきています。

広い意味で「こんな状態なら生きていたくない」という思いを認めることになります。医療がある程度整っていて、一定の緩和ケアも受けられる状況で「無理に生きていたくない。死ぬ権利を認めてほしい」という主張には違和感をおぼえます。

安楽死への扉が開かれると、そこへ吸い寄せられていく恐れがあります。死にたいと思う背景には様々な問題があり、医療が対応できる肉体的苦痛だけではなく、社会保障や経済といった社会全体で立ち向かう課題も様々にあります。

死を選べば、本人の問題は終わりますが、課題は残ったままです。

――問題は起きているのでしょうか。

安楽死の合法化を支持する人は、「厳格に運用されているので、本人が希望していない安楽死は起きていない」と言います。

しかし、本人が希望していない「非自発的な安楽死」を強いる事態が生じることを、滑り坂論と言いますが、滑り坂は起きてしまうのです。

オランダでは、2006年から安楽死の対象が認知症の人にも広がりました。

そして2016年、まさに滑り坂が起きました。

安楽死を希望する意思表明書を事前に作っていた認知症の70代女性に、医師がコーヒーに鎮静薬をまぜ、眠ってから致死薬を注射しようとしたのです。しかし、女性が抵抗したため、家族が女性を押さえる中、注射して死なせたのです。

最高裁では無罪になりましたが、医師は起訴され、法の制定後、初の刑事裁判となりました。

判断力があったときに「認知症になったら安楽死させてほしい」と書いていても、認知症になったときに忘れていれば、その時点での本人の意思は明確といえません。

このオランダの女性も、安楽死を実施する直前には、安楽死を望む意思は明確でなかったそうです。

自己決定ができる時期ばかりではないのです。老いたり認知症になったりして、できなくなるグレーゾーン、「たそがれゾーン」が存在するのです。

――たそがれゾーンですか。

米国で始まった生命倫理学というのは、自分で人生や治療方針を選ぶことができる人をモデルに構築されてきました。

しかし、高齢化が進み、ゆっくり進行する慢性疾患を抱えて長く生きる人が増加する社会では、このモデルだけでは通用しません。

自己決定できるようでできない、朝はしっかり話せたけど夕方になると話が通じない。そういった人の思いを探って、本人の意思を尊重するケアを目指すべきだと思います。

このことは厚生労働省の「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」でも強調されています。

若いころほど体は動かない。病気もあり痛みもある。それでも医療や介護を受け、なんとかやりくりをして生きていく。過ごし方によっては生きる意味はそれなりにある、と考えることはできます。

健康とは完全に良い状態というWHO(世界保健機関)の健康定義や、病気になったら完治をめざすという近代医学のモデルだけでも通用しなくなってきました。

―日本では、安楽死推進論をあまり聞きません。なぜでしょうか。

過去に東海大学病院や川崎協同病院であった安楽死事例では、亡くなった本人の意思が明確ではありませんでした。

日本では、忖度(そんたく)文化が根強い。家族や社会に迷惑をかけたくない、という思いが強いのが特徴です。言い換えると、本人の意思、希望が見えにくい。日本で安楽死を認めようとしたら一番心配されるのがこの点です。

超高齢社会日本でこの先、十分な年金や介護を受けられるのか。疑問を持つお年寄りらが追い詰められ、仕方なく「こうしたほうがいいんだよね、私」と形だけの「自己決定」をするのでは、と懸念されます。

このような決め方は、自発的な意思決定とはいえません。

まさに倍賞千恵子さんらが出演した映画「プラン75」で描かれた世界です。

――国内では、延命治療を始めなかったり中止をしたりしても医師の責任を問わないとする「尊厳死」の法制化をめざす動きがあります。

日本救急医学会や日本老年医学会などの専門学会が相次いで治療の中止を盛り込んだガイドラインを出し、厚生労働省は本人の意思を確認するアドバンス・ケア・プランニング(ACP)を普及させようとしています。

法律が介在しなくても、これらを充実させて本人の希望をできるだけ保障していくと良い、と私は考えています。

大事なことは、ACPを事前指示書(リビングウィル=LW)のように「これが患者の意思」と固定化しないこと。LWは過去の決定で、人の心は変わりやすく、動揺もする。書いてある内容があいまいだと実行できないと言う問題点もあります。

ACPは、終末期に限定せずに、治療方針に生かしていくという意味で何度も繰り返し話し合っていくものです。

「死ぬ権利」が「死ぬ義務」へと転換しないようにしなければなりません。