余命とQOLは「トレードオフ」
――診療所の患者さんの中には、大きな病院に入院後元気がなくなっていたが、自宅に戻り在宅診察を受けるようになって元気になった方が多くいます。
高齢者に対する医療の取り組みは2つあり、一つが余命を伸ばすこと、もう一つが生活の質(QOL)を上げることです。この2つの掛け合わせを最大化することが老年医学の目標なのですが、この2つはトレードオフのように、いっしょに上げることが難しい。だから、「QOLはいいから寿命を延ばしてくれ」だったり、その逆であったりと患者さんご自身の価値観がからんできます。
そして生活の質を上げるには、医学的な側面だけでなく心理的、社会的、霊的など多くの視点が必要になってきます。それをやろうとすると医者だけでは無理で、チームが必要。看護師、ケアマネージャー、ヘルパー、ケースワーカー、患者本人とその家族などです。医師が赴いて体を見るだけではなく、その人の余命とQOLを上げるために、周りの人を巻き込んで健康地域を作っていくのが目標です。医師や看護師だけでなく、家族や地域住民、ケースワーカーらいろんな人がかかわる中で自然と元気になっていくのです。
貢献感、自己満足でも
心理学にこんな言葉があります。「幸せとは貢献感である」。これが高齢者にそのまま当てはまると思うんです。病院のベッドに寝たきりでは、医療関係者に世話をされる一方で、自分から貢献することができない。でも自宅に戻れば、台所に立つとか、孫と話すとか、何かしらできます。「なぜ多くの高齢者は幸福ではないのか」と考えたときに、貢献感がないからだと思うんです。
――聖路加病院で働いているときに故日野原重明先生とも仕事をされていました。どんな方でしたか。
日野原先生はすごかった。緩和ケア病棟を先生が月1回ほど回って歩く「日野原回診」というのがあったんですが、彼が歩いた先は、すぐ分かる。患者さんの顔つきが変わって元気になっていくからです。それは花が咲いていく、火がともっていく感じでした。オーラもありますが、声のかけ方や距離の詰め方などが絶妙で、あの年齢だから出来たのか、僕らが身につけることができるのか分かりませんが、目標とするところですね。日野原先生は最後まで幸せだったと思います。あれほど貢献されていたのですから。
――ですが、全ての人が日野原先生のようにはなれません。一般のお年寄りが貢献感を得るのは難しいと思うのですが。
アドラー心理学で知られるアドラーも言っていますが、貢献感というのは自己満足でもいいんです。私がみている認知症の患者さんで、時折台所に立って料理をしたり、洗い物をしたりする方がいます。実際には全然できていないのですが、家族のために何かをすることで、貢献感に満たされます。
私は高齢の方々は生きているだけで価値があると思います。90歳の方がいれば、「90歳ってこんなにつらいんだ」とか、逆にそうでないんだとみんなに見て知ってもらうことができる。がん患者さんや亡くなる直前の方々にも、私は何よりまず「ありがとう」という言葉をかけるようにしています。「そこに存在してくれてありがとう」と。
――なぜ老年医学を専門にしたのですか。
日本にも老年医学や加齢医学という分野がありますが、きちんとした研修方法が確立されていません。日本で老年医学といえば動脈硬化、認知症、パーキンソン病の研究。でも私が学んだ米国では「ひと」に焦点が当たっていました。認知症も動脈硬化もパーキンソン病ももっているその「ひと」が、残りの時間をどうやって過ごすのか、どう1日でも長く過ごすかという学問であり、診療科目でした。
ミシガン大学で受けた老年科医の研修では、多くの問題を持って訪れる高齢患者のニーズに、専門医集団と看護師、薬剤師、リハビリ療法士などからなるチームで対応していました。目から鱗が落ちるような体験で、30代後半で老年医学を志す決心をしたんです。
老いの2大ストレスは・・・・・・
――老いる上で最もつらいことは何だと考えますか。
老いの2大ストレスは、孤独と退屈だと思います。いかに老年期に孤独と退屈を克服できるかによって老後が変わります。高齢者は絆、コミュニティーでの居場所が大事と言うけれど、年を取ると目が悪くなり耳が聞こえにくくなる。認知症も出てくると、外出して人と接することは難しくなる。外出できているうちはいいけれど、できなくなった後にどう孤独や退屈を乗り越えていけるかが大事なんです。
一つは、自分の世界を作ることですね。90代の元弁護士の男性がいて、囲碁の達人でした。認知症が進み囲碁会場に足を運べなくなってからも、彼は老人ホームで一日中囲碁の研究をしていました。亡くなる直前まで。彼は囲碁という自分の世界を持ち続けていたから、幸せだったのではないかと思います。
もう一つ大事なのは柔軟性です。体は衰え、自分は一人になっていくという変化に柔軟であることです。ある人はゴルフが趣味でした。でも、パーキンソン病になって体が動かなくなってしまった。彼はゴルフをあきらめ、野鳥の会に入って、野鳥を楽しむようになった。彼は死ぬ直前まで、ベッドの上から双眼鏡で野鳥を見て描いていました。社会は、外に出ましょうとかソーシャルネットワークをやりましょうとつながることばかりに力を入れますが、それは元気だから出来ることです。
認知症という「ギフト」
――そして、多くの人が認知症になることを、死以上に恐れているようです。
多くの人が老いることに悩み苦しみます。なぜなら、今の社会で「老い」は喪失体験に彩られているからです。若さの喪失、機能の喪失、友達や家族の喪失、そして仕事の喪失。悩み、苦しみ続けると「うつ」になり、さらに進むと認知症になる。だから、誤解を恐れずに言うと、私は認知症は神様からのプレゼントだと感じています。脳がはっきりしている人たちが老いに悩み苦しみ、うつになっていくのを見ていると、「もう老いに苦しまなくていいよ」というギフトとも思えるのです。認知症の人たちは、幸せそうに見える。ただ、患者を支える周りの人たちはとても大変なのですが。
――認知症にならずにピンピンコロリを理想とする人が多いようです。
何をピンピンコロリと呼ぶかにもよりますが、点滴をすれば長く生きますから、あまり医療を受けない方がピンピンコロリできる気はします。薬は減らすとみんな元気になります。薬が、その人の持っている治癒力を引き出すのを邪魔していることがよくあるからです。医者に行くと、薬をたくさん処方されてしまうことが多いですが。
――周囲が大変と言われましたが、日本で、認知症を怖がる背景には、家族などに迷惑をかけたくない気持ちが強いのではないかと。
私は、社会の問題ではないかと思います。日本と米国しか知りませんが、日本は社会全体が若さに価値を置きすぎていると感じます。若くてきれいな人がすばらしい、と。でもこれからもっと高齢者が増えていくわけだから、意識改革をしないとみんなが幸せにはなれません。認知症を予防、治療することよりも、認知症になっても、人間性を失わずに尊厳を失わずに、楽しく安全に暮らしていける社会を作っていくことが大事だと思います。
大蔵さんの訪問診療を受ける2人の89歳を訪問しました
自宅で、大蔵さんの訪問診療を受けながら暮らす大崎市内のお年寄り2人を訪ねた。
一人は早坂修さん(89)。2年前にがんの治療で入院。当時は2カ月以上自力で食べることもできなかったが、自宅に戻って10日ほどで食べられるようになり、体調もよくなっていったという。
今では毎日畑仕事を欠かさず、50種類近い路地野菜や米を育てる。自分や家族が食べる野菜はほとんど作り、県内に住む子どもたちにも配っているという。「野菜は買うもんでねぇ。おいしさが違う」と話し、子や孫たちに囲まれた米寿のお祝いの写真をうれしそうに見せてくれた。
もう一人は、林房治さん(89)。林さんは月2回の大蔵さんの訪問をカレンダーに書き込み、心待ちにしていた。林さんは菓子職人で娘の裕子さん(60)が和洋菓子店を継いでからも、87歳まで和菓子を作っていた。一昨年、骨折で寝たきりに近い状態になり生きる気力も失いかけたが、大蔵さんと出会い、少しずつ動けるようになったという。
18歳で亡くした母への思いを口にし、「親孝行できなかったことが悔しい。親からもらった体を大事にして、1日でも長く生きることが今できる孝行」と言葉を続けた。「自分が弱ると、娘も大変になる。負担をかけないように、毎日歩くようにしています」と話していた。
おおくら・とおる 1971年生まれ。京都大学病院、聖路加国際病院での勤務をへて2001年に渡米。老年医学や高齢者医療を学ぶ。09年に帰国し、東京の介護付き有料老人ホーム勤務をへて、16年に開設された「やまと在宅診療所大崎」の院長に就任。ライフワークである「日本一そこで老い、生き終えたい村作り」に取り組む。著書に「『老年症候群』の診察室」(朝日選書)。