特集「最期を選ぶということ」で紹介した欧米の国々では、安楽死を個人の「死ぬ権利」として認めてきた。その対象を認知症や精神疾患の人へと広げる動きも進む。日本とはずいぶん様相が違う。
「選択肢があるのはよいこと。望まない人は選ばなければいい」という声も聞く。しかし、私はそう単純ではないと考えている。
大半の人は「本人の意思に沿う」ことに賛同する。ただ、これこそ「言うはやすく行うは難し」だろう。
どれほど制度を厳格に運用しても、本人が望んでいない「非自発的な安楽死を強いる」事態が起きてしまう恐れがある─。静岡大名誉教授の松田純さん(73)は警鐘を鳴らす。
本人が安楽死の希望を書き残していても、それだけで解決しないこともある。
オランダで2016年、象徴的な事例があった。安楽死を希望するという文書を作っていた認知症の70代の女性を鎮静薬で眠らせ、薬で死亡させようとした。本人が抵抗したので家族が押さえ、医師の注射で女性は亡くなった。
最高裁で無罪になったが、01年にオランダで安楽死を認める法が成立して以来初めて、関与した医師が起訴される事件となった。
医療の進化は、長く生きることを可能にした。老いていく中で認知症になることもあれば、人生の選択を思うようにできなくなる人も増えていく。
「自己決定」できる時期ばかりではない。「徐々にできなくなる『たそがれゾーン』が存在する」と松田さんは語る。
さらに、家族ら周囲への配慮が本人の決断に大きな影響を与える。
取材で訪れた韓国で、韓国保健社会研究院が「良い死」について高齢者に聞いた調査結果を知った。1位は「家族や知人に負担をかけないこと」だった。
日本でも家族らへの「忖度(そんたく)」が、影響すると言われる。安楽死という選択があるために、高齢だから、病気だからという「圧力」が死を選ぶことを後押ししないか。心配はつきまとう。
「ぴんぴんコロリ」は幻想
また普段、死を語ることを避けがちで、本人の望みを家族すら知らないことが多いのではないだろうか。医師らから十分な説明を受けられず理解不足のまま、選択を迫られることもある。「延命治療は不要」と言っても、延命治療の定義がそもそも難しい。
結局、本人の真意は何なのか。正しく伝わらないことがある。本人の意思を尊重するといっても、限界があることを念頭に置く必要がある。
それでも私たちは、自分の周囲にいる人がどんな最期を迎えたいのか、知るための努力をし続けなければならない。法律をつくればおしまいではなく、国や地域の事情にあった手法で、個人の最適な死を模索していくことが求められるのだろう。
日本では、自ら最期について考え、リビングウィル(LW)※1を書いたり親しい人に語ったりして、周囲に伝えておくことが一つの解決策になるだろう。アドバンス・ケア・プランニング(ACP)※2を広め、繰り返し考える文化を根付かせることがさらに重要だ。
死は、悲しくつらい。LWやACPには、「遺族の後悔を減らす」側面があるとも言われる。自身の望みを熟慮し、知らせることは、周囲のためにもなる。
多くの日本人は「ぴんぴんコロリ」を理想的な死に方だと言う。私もそう思っていたが、幻想だと気付いた。元気だった人が突然、亡くなることは少ない。大半の人は病気や障害のある「たそがれゾーン」を経て、最期の時間を過ごす。「完全な健康が取り戻せないなら死んだ方がよい」と考えるのか。それとも衰えていく自分を受け入れるのか。心持ちによって望ましい最期は変わってきそうだ。
そして心持ちは環境に左右される。だからこそ思う。「弱った自分でも、生きることを肯定される社会であってほしい」。その前提があってこそ、死についての自己決定は意味をもつのだろう。