■ゴルバチョフにひそかに伝えたメッセージ
1987年12月、アメリカを初めて訪問したソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長は、ホワイトハウスでのレーガン大統領との首脳会談を終え、空港に向かった。ゴルバチョフ氏の脇には、当時副大統領だったブッシュ氏が乗り込んだ。翌88年は大統領選の年である。2期にわたって副大統領を務めてきたブッシュ氏の出馬は確実視されていた。
車の中でブッシュ氏はこう切り出した。
「来年の大統領選で私が勝利するチャンスは大いにある。当選した暁には、私が米ソ関係の改善を望んでいることをご承知おき願いたい」。そのうえで、ホワイトハウスには強硬派が多いので穏健派としての自分の考えは胸の内に秘めておかねばならないことを明かした。選挙中は当選するためにいろいろなことを言ったりしなくてはならないが、それは一切無視していただきたい、とまで説明した。
ゴルバチョフ氏は快諾した。そして、のちにあれは「ブッシュと自分が交わした最も重要な会話だった」と思い出すのである。(ストローブ・タルボット、マイケル・R・ベシュロス『ドキュメント・冷戦終結の内幕 最高首脳交渉』)
ブッシュ家は、政治家や実業家を輩出した名門だ。故大統領の父プレスコット・ブッシュはコネティカット選出の共和党の上院議員である。父を追って政治の道に進んだ。時は冷戦の時代。共和・民主両党の政策の溝は今のように大きくなく、外交・安保では超党派の協力関係があった。ブッシュ氏の真骨頂はその外交だった。国連大使、在北京の米国連絡事務所長、中央情報局(CIA)長官などを歴任した。
ブッシュ政権の1年目に、冷戦の終結が突然やってきた。ブッシュ大統領は、共産主義体制の崩壊が始まると、慎重に事態の推移を見守った。西側が安易に「勝利宣言」をすると、ソ連側で体制を死守しようとする勢力のバックラッシュを招きかねない、と恐れたのである。ブッシュ政権の4年間に、東西ドイツが統一され、ソ連が崩壊した。
■なぜフセイン大統領を倒さなかったか
1990年夏。冷戦後のアメリカの指導力が試される危機が起きた。
イラクのフセイン大統領が、隣国クウェートに軍を侵攻させたのである。ブッシュ大統領は、武力による侵略は黙認できないと考えた。辛抱強く国際包囲網を築き、国連安保理事会決議というお墨付きを得て、武力行使に踏み切った。しかも、短期間の戦闘でイラク軍をクウェートから追い出すと、そこで軍事作戦を止めた。
なぜ、あの時に一気にフセイン政権打倒に動かなかったのか。当時、ホワイトハウスで安全保障担当補佐官を務め、大統領の側近だったブレント・スコウクロフト氏に、直接話を聞く機会がのちにあった。
「イラクに攻め込んだら、アラブ諸国は我々を支持しなかったでしょう。たとえフセインを倒せたとしても、その新しい政権がフセイン体制よりよくなる保証はありませんでした」
スコウクロフト氏の考えは「冷静なプラグマティスト」と呼ぶべきものだろう。それは彼が仕えた大統領の考えでもあった。
湾岸戦争は、ベトナム戦争の敗北後、アメリカが久々に得た明確な軍事的勝利だった。大統領の支持率は89%に達した。しかし、凱旋パレードに大統領は姿を見せなかった。栄誉を受けるのは現場の将兵たちで十分だと考えたのである。このあたりが、いかにも穏健な人柄らしい好ましいエピソードなのだが、目立ちたがらない姿が、ときに指導力がないとか、「ビジョンを欠く」と受け取られがちだった。
不運は重なる。
1992年初頭、ブッシュ大統領が来日した。1月8日、首相官邸で宮沢喜一首相が主催する晩餐会が開かれた。当時、外務省担当の記者だった私は官邸の廊下で晩餐会が終わるのを待っていた。
突然、会場が騒がしくなった。風邪気味で体調を崩していたブッシュ大統領が、食事の途中で意識を失い、隣の宮沢首相に倒れかかり、なんと首相のひざに吐いてしまったのだ。
一部始終を撮影したビデオが米国のテレビで流れた。バーバラ夫人が、大統領の体を支え、汚れた口をナプキンできれいにする姿が印象的だったが、同じ年の11月に大統領選を控え、再選を目指していた大統領にとってはマイナスでしかなかった。
冷戦を終わらせ、湾岸戦争に勝利した大統領は、普通ならば再選確実のはずである。しかし、人の記憶は短い。アメリカ国民の関心は、急速に国内問題、特に経済へと向かった。景気後退が始まっていた。外交を強調するブッシュ氏の支持率はぐんぐん落ちていった。大統領選では、アメリカ南部の小さな州アーカンソーの知事だった民主党のビル・クリントン候補に敗れてしまう。
■「時代遅れ」と言われたスタイル、美徳だった
父のブッシュ氏がホワイトハウスを去ってから8年後、長男のジョージ・H・ブッシュ氏が大統領に就いた。親子は、スタイルも思想も相当異なる。息子はキリスト教の中でも保守的な福音派の影響を強く受け、アメリカの価値を力で世界に押しつけるネオコンの思想にひかれていた。息子が踏み切ったイラク戦争に、父親は批判的だったと言われている。
それでも、晩年の親子関係は友好的なものに戻っていた。弔辞で長男のブッシュ氏は、父のことを「偉大で高潔な人である、息子や娘にとってもっとも素晴らしい父親でもあった」と述べ、感情を抑えられなくなった。
死去の報に、故人を称える声は党派を超えている。民主党寄りでリベラル派のニューヨーク・タイムズ紙も、「1期でおわった最も偉大な大統領」という最大級の賛辞を紹介した。
目立とうとしない姿勢、直筆の手紙や電話による念入りな根回し、自らに反対する者を敵視せず、たえず中道を模索しようとする姿勢。こうした故大統領のふるまいは、当時は古風で時代遅れと批判された。しかし、大統領職を去って四半世紀たつと、それこそが現代の政治が失った美徳だと再評価されている。
トランプ当選以来、アメリカにおいて、保守とリベラルの間で罵詈雑言を浴びせ合う政治が続いている。そういう中で、今回の国葬は、ぽっかりと静謐な空間を作り出したかのようだ。