8月の早朝、私は芝園団地の広場で、2人の中国人男性を待っていた。
本当に来てくれるだろうか。期待半分、不安半分の気持ちだった。広場ではこの日、団地の夏祭り「ふるさと祭り」のやぐらの組み立て作業が予定されていた。私は、一緒にやぐらの組み立てを手伝おうと、2人に声をかけていたのだ。
ふるさと祭りは、団地の自治会が中心となって30年以上続けてきた、住民手づくりの催しだ。なかでも2階建てのやぐらは、「こんなに大きなやぐらは、このあたりではうちだけだ」と住民が誇る、祭りのシンボルだ。
ただ、日本人住民の減少と高齢化で、数十人でやぐらの鉄骨を組み上げる作業は、大きな負担となりつつあった。一方、いまや5000人弱の住民の半数を占めるのが、都内に通勤するIT技術者などの中国人だ。祭りを楽しむ中心も、日本人住民から、団地や周辺に住む中国人住民に移りつつある。「日本人が準備や運営に汗をかき、中国人が楽しむ」という構図に、日本人住民の間には「モヤモヤ感」が漂っていた。
中国人住民にも祭りの準備に加わってもらえば、お互いに協力して祭りを続けていく糸口が見つかるかもしれない。何より、このモヤモヤ感も和らぐのではないか。そんな思いから、団地で知り合った中国人男性3人に頼んでみると、うち2人から「大丈夫です」と返事が来たのだ。
一人は同じ棟に住む、IT技術者の欧陽有界さん。トライアスロンが趣味の欧陽さんとは、時々、荒川を自転車で一緒に走る仲だ。
もう一人は、専門商社で働く楊思維さん。楊さんのことは、芝園団地についての別の記事で紹介した。
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高齢の日本人女性が団地の中で転んで立ち上がれなくなっているとき、助けていたのが楊さんだった。一緒に女性を抱え、病院に向かうタクシーに乗せたときに、連絡先を交換したのだ。やぐらを組み立てる8月5日の朝、予定より少し早めに広場で待っていると、Tシャツと短パン姿の欧陽さんが姿を見せた。そばにいた自治会の副会長に紹介すると、「おー、ありがとう」と笑顔で迎えてくれた。やがて楊さんもやってきて、20代の2人が、30人ほどの日本人住民と一緒になって、鉄骨を組み上げていった。
これが次につながるきっかけになってくれれば。そんな思いを抱きながら、汗をぬぐいながら作業をする2人を見守った。
最後のやぐら
それから2週間後、ふるさと祭りは8月18日から19日にかけて開かれた。
会場となる団地内の広場には、団地の商店街や住民が出す露店が並んだ。中国料理店が店先で焼く「羊肉串」の煙と香りが、ほかの祭りとの違いを際立たせる。
やぐらを囲む盆踊りでは、日本人の踊り手の後ろに、中国人の子供たちが見よう見まねで続いていた。それをスマホで撮影する中国人の父母の姿も、ここ数年の祭りでの見慣れた光景だ。
住民による出店が年々減ってきたため、今年は例年よりも規模を縮小したが、にぎわいはむしろ昨年を上回るほどだった。祭りは成功のうちに終わったかに見えた。
ところが数日後、自治会の事務局長を務める岡﨑広樹さんから、思わぬ話を耳にした。
「やぐらは今年で最後にするみたいですよ」
確かに、「そろそろ潮時だ」という話は去年も出ていたが、結論を出すのはあと数年先だろうと思い込んでいた。自治会長の韮澤勝司さんに確認してみると、確かに処分することに決めたという。
「3、4年前からやめようという話は出ていたけど、団地ができて40周年の今年まではなんとか、ということで続けてきたんだ」。韮澤さんは語った。
8月末、祭りが終わった後も広場に残されていたやぐらを解体するため、再び住民が集まった。
解体は、組み立ての半分ほどの時間で終わった。作り上げるのは大変でも、壊すのはあっという間だ。それは、祭りそのものにも言えるのかもしれなかった。広場に残された鉄骨は、翌日には業者がトラックに載せていき、やぐらは跡形もなくなった。
こうして、芝園団地の夏は終わった。
バトンを誰に渡すか?
自治会はその後、来年の祭りをどうするか議論をした。事務局長の岡﨑さんは、「ここでいったん立ち止まって、祭りのあり方を見直してもいいのでは」という意見だ。
祭りの中核を担ってきたのは長年団地に住む人たちだが、自分たちの子や孫はもう団地には住んでいない。祭りを楽しむ人の多くは、自治会に入っていない中国人住民や団地の外に住む人たちだ。露店も、かつては住民の手作りの店が並んだが、いまでは住民の出店は数えるほどで、大半は商店街が出す店だ。
「子供たちに故郷の思い出を残すために始めた祭りと聞いているが、祭りの位置づけが当時とは変わってしまっている。自治会がボランティアでやる意味があるのか、という疑問が個人的にはあります」と岡﨑さんは語る。
一方、長年団地に住んできた自治会長の韮澤さんは複雑だ。どうするつもりか尋ねると、しばらく沈黙してから答えた。
「俺はもう、故郷よりもここでの生活の方が長くなった。多少でも体が動くうちは、続けたいねえ」
ほかの自治会役員からも、「一度やめたら、再開できない。規模を小さくしても、続けるべきだ」という声が出ている。ただ、韮澤さんを含め、祭りを担ってきた古くからの住民の多くは70代となった。韮澤さんは、「もう5年もしたら、俺たちも引退だ」と語る。
バトンは、だれに渡したらいいのか。
「難しい質問だね。(受け取る人が)いるかどうか……」
実はその答えは、半分は出ている。バトンを受け取る日本人住民は、いないのだ。正確にはゼロではないが、いまの祭りや自治会活動を維持していくだけの人数を確保することは、極めて難しいだろう。最もありうるのは、祭りはこれから徐々に規模を縮小して、遠くない将来に終わるというシナリオだ。
もう一つの可能性は、外国人住民と一緒に祭りを続けることだ。中国人住民は20代から30代の比較的若い層が中心で、団地の広場は、子供を遊ばせる中国人夫婦でいつもにぎわっている。
だが、韮澤さんら長年自治会役員を務めている住民からは、「もっと中国人住民に加わってもらおう」という言葉が積極的に出ることはない。そこにはやはり、まだ躊躇があるのだ。「そこまでやってくれる人がいるかね。難しいと俺は思うよ」と韮澤さんは言う。
「団地の一員」という帰属意識
韮澤さんの言う通り、ハードルは高い。仕事であれば賃金や技術の習得といった動機があるが、祭りを手伝ってもお金をもらえるわけではない。
そもそも私たちはなぜ、祭りをするのだろうか。
地域のため、子供たちのため、一緒に何かをすること自体が楽しいから……。そこには様々な理由があるが、すべてに通じる前提がある。単に「住んでいる」だけではない、「私たちの団地」という帰属意識であり、その中でのつながりだ。
日本人ですら、地域社会への帰属意識は薄れている。自分自身、芝園団地に越してくる前に東京で暮らしていたころは、自治会の活動や地域の祭りに参加したことは、一度もなかった。
そんな帰属意識を、外国人住民が持つようになるだろうか。ましてや芝園団地は賃貸住宅で、数年で引っ越していく外国人住民が多い。
何より、日本人住民が「地域の一員」として外国人を受け入れる姿勢を示さなければ、帰属意識は生まれようもない。
後日、団地内の喫茶店「のんのん」で楊さんとコーヒーを飲みながら話した。「日本人と外国人が一緒に祭りを残すことは可能だと思いますか?」という問いかけに、楊さんは答えた。
「知っている人に誘われれば、参加する人もいると思います。結局は、人と人のつながりではないでしょうか」
確かに、倒れた高齢女性を助けたのをきっかけに私と楊さんの間にはつながりが生まれ、それがやぐらの組み立て参加につながったのだ。
来年以降の祭りをどうするか。自治会は話し合いを続けているが、まだ最終的な結論は出していない。
一つ分かっていることは、祭りも、そして団地そのものも、大きな岐路にさしかかっているということだ。