「言っちゃいけないけど、思っちゃう」
昨年のある日、芝園団地の中を、昔から住む日本人住民2人と歩いていたときのことだ。近所にある新しいマンションの建物を指さしながら、二人がこんなやりとりを交わした。
「あそこも中国の人がたくさん住んでいるだって」
「どうして中国の人がこんなに集まってくるんだろうね。あ、でもこういうことは言っちゃいけないんだよね」
「でも、思っちゃうよね」
後ろを歩いていた私は、2人にかける言葉を見つけられなかった。私に言われるまでもなく、それは「言うべきことではない」ことは、2人はわかっているのだ。
でも、思っちゃう。
私は団地に住みながら、この「多数派のもやもや感」とでも呼ぶべき感情のことを考えてきた。
朝日新聞GLOBE6月号に、芝園団地のルポを書いた。その中でも書いたが、このまま放置すれば、米国や欧州で起きたことと同じように、大きな排外主義的なうねりに「持っていかれる」のではないかという思いが消えなかった。
そんなときに手にした一冊の本の中に、こんな一文を見つけた。
少子高齢化や移民の増加という文脈の中でますます深刻化している彼らの懸念を、エリート層は十分感じ取っていないように住民は思っている
ポピュリストたちが、このようなメッセージをとらえ(中略)、彼らの都合のよいように不安感を掻き立て、その感情をフラストレーションへと変化させ、移民の人々をスケープゴートにした
これはまさしく、私がかつてアメリカの大統領選挙や中間選挙の取材で訪れた、中西部のラストベルト(錆ついた工業地帯)や南部の小さな町で、実際に見聞きしたことだった。
しかもこの本(原著)の出版は2012年、トランプが勝利した大統領選の4年も前だ。
文章はこう続く。
このようなエピソードは、二重の教訓を与えてくれるように思われる。まず、大衆の声に耳を傾け、アイデンティティの管理をデマゴーグ(扇動者)やオポチュニスト(ご都合主義者)たちのやりたい放題にさせないということ。次に、マイノリティの不安感に注意を払うことは必要であるが、マジョリティの間にもみられる同様の感情を無視することは誤りであること
この本、「間文化主義(インターカルチュラリズム)」(彩流社)を書いたのは、国際的に著名なカナダ・ケベックの社会学者であり歴史学者でもある、ジェラール・ブシャールだ。
ブシャールがここで書いているのは、カナダ・ケベックで2006年から07年にかけて起きた論争のことだ。
当時、シーク教徒の男子生徒が宗教上の理由で身につける短刀を学校に持ち込むことを認めたことなどをきっかけに、マイノリティの宗教的な慣行をある程度尊重することに対して、フランス系住民の中から、「行き過ぎた配慮だ」と反発が起きた。メディアも論争を大きく取り上げた。
事態を重く見た州政府がつくった諮問委員会で、共同委員長の一人を務めたのが、ブシャールだった。ブシャールたちは住民と多くの対話集会を重ね、報告書をまとめた。
この一件や、ブシャールが唱えるケベックのインターカルチュラリズム(※)には、ケベックのフランス系住民が置かれた「ケベックでは多数派だが、カナダの中では少数派」という特殊な立場が色濃く反映されている。
(※ケベックのインターカルチュラリズム 一つの社会の中に、複数の文化が対等な形で共存するのが多文化主義だ。一方、インターカルチュラリズムは、多様性を尊重しつつ、異なる文化間の相互交流や共通の立場につながる取り組みを重視する。その定義は、個人や国によって違いがあるが、ブシャールはケベックのインターカルチュラリズムの特徴として、①多数派と少数派の関係を考慮に入れる②相互交流と協力を重視する③共通文化を構築する、などを挙げている。ブシャールは著書の中で、「多数派と少数派」という二元性が存在することを認めたうえで、二元性が対立や緊張の原因とならないよう「二元性の折り合いをつける」ことを目指すと書いている)
ケベック州ではフランス語を母語とする人が8割を占め、公用語もフランス語のみだ。だが、カナダ全体ではフランス語を母語とする人は2割程度に過ぎない。歴史的にも、イギリス系住民の支配下で同化の圧力にさらされてきた時代がある。
芝園団地の日本人住民も、フランス系住民とは逆だが、多数派であり少数派でもあるという意味では共通する部分がある。約5000人が住む芝園団地では、わずかな差ではあるが、外国人住民の方が日本人住民よりも多い。
ブシャールとケベックに関心を持った私は、休暇で米国を訪れた機会に、カナダ・ケベックに足を延ばした。
データでは打ち破れない「ステレオタイプと恐怖」
ブシャールに一番聞きたかったのは、「多数派のもやもや感」をどうしたらいいのか、だった。
このもやもや感は、やっかいな感情だ。
たとえば、団地の商店街の大半が中国系の店になったことをさみしく思う古参住民に対しては、心情的に、「その気持ちも無理ないなあ」と思う。一方では「日本人と外国人」と分ける意識が固定観念と結びつき、根拠のない偏見につながることも少なくない。
ケベック大学シクチミ校教授のブシャールは、研究室で私を迎え入れてくれた。芝園団地の状況を説明するとすぐに理解したようだった。私の問いに、よどみなく語り始めた。
(移民を受け入れることによる)変化は多数派の中に苦痛を引き起こし、それが非常にネガティブな反応につながる恐れがあります。ひどいことが起きないようにするために、そうした反応を和らげる準備をしておく必要があるのです。
ブシャールは、多数派の感情の根底には、「ステレオタイプ(固定観念)」と「恐怖」という要因があると指摘した。
ステレオタイプについて、ブシャールはこう語る。
問題は違いそのものではなく、それによって生まれるステレオタイプ(固定観念)です。これが、違いをネガティブで醜いものに変えるのです。ステレオタイプは非常に強力で、なくすことが難しいものです。 私の近所の雑貨店で働く高齢の女性が、「ブシャールさん、イスラム教徒が私たちの社会をコントロールしているのがわからないんですか?どこに行ってもイスラム教徒だらけじゃないですか?」と話しかけてきたことがありました。 私は「モントリオールにどのくらいのイスラム教徒がいるかご存知ですか?2%から3%ですよ」と伝えましたが、彼女は「そんなの単なる数字ですよ!」と答えました。イスラム教徒はごく少数ですと伝えるだけでは、彼女を納得させることはできないのです。
失われるものは、一体なに?
もう一つの要因である、多数派の恐怖や不安については、ケベックの移民受け入れの経験を話した。
変化とは困難なものです。そして、痛みを伴います。ここケベックでも多数派からは、「(移民受け入れによる)多元主義によって私たちの文化や伝統、アイデンティティが失われる」といった声が上がりました。 しかしこれは非合理的な反応です。私はこういう意見が出ると聞いたものです。「どういう伝統が、マイノリティのせいで消えてしまったというのですか?」と。彼らからは言葉は出ません。ケベックの伝統はいまもよく保たれているからです。 これは、一体性や均一さこそが共同体の強さの源であり、そうしたものが脅かされているという「感情」なのです。
ブシャールは2012年に日本を訪れたときの講演で、この「均一性が脅かされる」という多数派の感情について、「保持したい独占や権力関係や特権が危うくなることへの、言外の抵抗である場合もある」と指摘している。
団地に住む私にも、思い当たる節はあった。団地の日本人住民が外国人住民について語るとき、その言葉には「ここは私たちの団地なのだ」というニュアンスが伴うときがある。
それはまさに、均一性が失われるという不安であると同時に、自分たちが団地の主であるという、無意識の特権意識を反映したものかもしれない。
何かを一緒にする、私たちも動く
それでは、恐怖やステレオタイプを克服するには、具体的にどうしたらいいのか?
ブシャールは「簡単な答えはありません」と断りつつ、いくつかヒントになる話をしてくれた。
ブシャールは、「インターカルチュラリズムでは、相互の交流と協力が非常に重要です」と強調する。そして、その交流とは対話だけにとどまるべきではない、という考えだ。
対話をしてお互いを知ることは、初期の段階では間違いなく必要です。ステレオタイプ(固定観念)を崩すのです。ただそこにとどまっていては長続きしないでしょう。何かを一緒にすることが非常に重要です。 皆が楽しめることでもいいですし、住んでいる地域をきれいにする活動といった、より重要なことでもいいでしょう。一緒にやることがつながりを生み、最終的には「ここに帰属している」という意識や団結を生むのです。
それはまさしく、芝園団地で大学生のグループ「芝園かけはしプロジェクト」や自治会が取り組んでいることだった。一朝一夕に変わるものではないが、学生たちは地道に住民交流のイベントを重ねている。
移民が社会の一員となるには、双方向の取り組みが必要だということもブシャールは強調した。これはブシャールに限らず、カナダの連邦政府やケベック州政府の移民政策でも強調される点だ。
統合は双方向のプロセスです。たとえば移民は新たな社会になじみ、社会にとって妥協の余地がない、根源的ないくつかの価値を尊重しなければなりません。一方で社会も、移民を助けなければなりません。教育や、職を得るための技術の習得などです。公的なサービスや医療、社会のネットワークに移民が確実にアクセスできるようにしておく必要があります。
日本にあてはめて考えるとき、この「双方向」というキーワードはとりわけ重要な意味を持つ。
記事でも書いたが、「外国人は日本のルールやマナーを守るべき」といった文脈で、日本では「郷に入れば郷に従え」という言葉をよく聞く。しかし往々にして、「郷に入れ」ないまま、ルールやマナーを守るべき、と言っているように私には聞こえてしまう。
社会の一員としてのふるまいを求めるのであれば、受け入れる側も、社会の一員となることを助ける。それがブシャールの言う「双方向」だ。
日本政府は6月15日、外国人労働者の受け入れ拡大のため新たな在留資格をつくることなどを盛り込んだ、「骨太の方針」を閣議決定した。
ここでは新たな制度の詳細や論点については踏み込まないが、一つだけ指摘しておきたいのが、労働力確保という視点だけで議論がなされ、生活者や社会という視点が、決定的に不足している点だ。
この問題に関心を持つ多くの人は、バブル期に政府が新たな在留資格をつくり、ブラジルなどからの日系人が急増した当時を思い出すだろう。政府は「出稼ぎ労働者」としてとらえ、定住者という視点からの受け入れ策を講じなかった結果、子供の教育をはじめとする様々な問題が表面化した。
当時もいまも、日本政府や日本社会の根底には、労働力としては受け入れざるを得ないが、生活者として、社会の一員としては受け入れたくないという、通用しないご都合主義が見え隠れする。
外国から日本にやってきて、私たちと同じ社会で暮らすのは、「労働力」というモノではない。人間なのだ。
ブシャールは日本にも講演で何度も訪れており、人口減少など日本の課題にも関心を持っている。ブシャールはこう話した。
大きくとらえれば、日本は1960年代から70年代のケベックと似ています。このころまでケベックは均一であり、またそうあることをポジティブにとらえていました。 そして、移民の増加と社会の多様化によって、こうした古いビジョンはもはや機能せず、放棄しなければならない、と考えるようになりました。もはや、現実に合致していなかったのです。それは、大きな痛みを伴うプロセスでしたが、我々は同じ方向に進み続けることができました。 日本が移民に門戸を開けば、同じような問題に直面するでしょう。簡単なことではありません。しかし、あなた方には世界の中における日本の水準を維持するという、大きな動機があるのではないでしょうか。
本当に守るべき本質は、何か
2時間以上に及んだ対話の最後に、ブシャールは重い問いかけをした。
「あなたは『多数派の不安にどう対処すべきか』と尋ねましたが、一つできることがあります」と前置きして、こう続けた。
多数派が「我々の文化やアイデンティティ、伝統が失われてしまう」と言うとき、それは正確には何を意味するのか、聞いてみるのです。あなたが失うことを恐れているのは、正確には何なのか? 私は多くの人々とこのやり取りをしてきました。そうすると、「我々の文化が失われてしまう」というのは真実ではないことに気づきます。すべてを失うわけではないのです。 次のステップは、では本質的なものは何かを問うことです。我々が決して妥協できない、本質的な要素です。それは私たちが歴史の中で築いてきた価値であり、我々の核となるものです。それは移民にとって、社会に入るのに必要なチケットとなるのです。もちろんその価値は、過去のドイツのような「我々は優れた人種である」といったものであるべきではありません。
ブシャールはこれをインターカルチュラリズムの柱の一つと位置付け、「共通文化を構築」と呼ぶ。これは「同化とは違う」と念押しする。移民は、自分たちの元々の文化や伝統とつながる権利を持つと同時に、共通文化を守ることを求められる。
ブシャールを含め、ケベックの人々が「核となる価値」について語るとき、それは明快だ。
フランス語、民主主義、自由、社会的平等……。それはケベックの歴史や、彼らの多くがルーツを持つ欧州の歴史に由来するものだ。その中核的な価値を共通のものとして保ったうえで、多様性を前向きにとらえて尊重するというのが、ブシャールが言うインターカルチュラリズムの核心だ。
「私たちは何者か」を突きつけられた
ブシャールとこの話をしているとき、「あなた方の中核的な価値とはいったい何なのだ?」と私自身が問われているような気がした。
本来であれば胸を張って、「私たちの中核的な価値も自由と民主主義です」と答えるべきはずなのだが、そう答えられるだけの自信は、私にはなかった。日本の民主主義は結局、定着しないまま衰退していくのではと危惧せざるを得ない話題は、森友・加計問題を含め、いまの日本には事欠かないからだ。
私たちは何者であり、どのような価値を共有する社会なのか。外国人を受け入れるということは、私たち自身にも重い問いを突きつけている。