【地球をつまみ食い】日英交渉のラスボス 大臣たちを焦らせた甘くてなめらか「スティルトン」
この記事は、朝日新聞(デジタル版)の連載「地球を食べる」で2021年3月19日に配信された記事を再構成してお届けしています。本編記事はこちらから
1, 交渉を止めた「特産品」の真相
2020年夏、大詰めを迎えていた日本と英国の新たな貿易協定交渉。茂木敏充外相(当時)が渡英し、すぐにまとまると見られていたが、発表されたのは「大筋合意することで合意した」という奇妙な結果だった。その裏には、英国のトラス国際貿易相(同)が最後の最後で、自国の名産品であるスティルトンチーズの輸出を増やせるよう日本側に関税の譲歩を求めたという事情があった。農産品というセンシティブな分野だけに即決できず、決着がずれ込む原因となった。
2, 英国の「推し」が強かった背景
なぜそこまでこだわったのか。背景には「EU離脱(ブレグジット)」がある。2020年1月末にEUを離脱した英国にとって、日本との貿易協定は「新しい英国」をアピールする絶好の機会だった。かつて農相も務めたトラス氏は、EU時代と同じ条件ではなく、独自の成果として「上積み」を勝ち取りたかったのだ。結果的に大きな譲歩は得られなかったが、この商品は英国政府の威信をかけた「推し」の逸品として注目を浴びることになった。
3, 300年の歴史で培った品質
その歴史は古く、18世紀までさかのぼる。名前の由来はロンドンと北部を結ぶ街道沿いの「スティルトン村」で評判になったことだが、実はこの村では製造されていない。現在はダービーシャーなど特定の3州で作られたものだけが名乗ることを許され、低温殺菌乳の使用や温度管理、8週間の熟成など細かいルールがある。職人が手間暇かけて作る伝統の味だが、メーカーは減少し、現在は5社のみがその味を守っている。
4, 消費低迷と職人の挑戦
伝統あるスティルトンだが、英国内での消費は伸び悩んでいる。健康志向でチーズ自体は人気だが、種類が増えて消費者の選択肢が広がったためだ。取材した農場のゴスリングさんも、伝統を守りつつ新しい挑戦を始めている。スティルトンよりもさらに柔らかく、甘みの強い独自のブルーチーズを開発中だ。「いつか日本への販路が開けたらうれしい」と、職人は遠い日本の食卓に思いを馳せている。
貯蔵庫で嗅いだにおいは正直苦手だったが、食べてみて印象が変わった。舌触りは驚くほどなめらかで、味は「甘い」。塩気とのバランスが絶妙で、これが日英交渉の関係者たちを悩ませた味かと納得。冷蔵庫から出してしばらく置き、常温に戻してから食べるのが、香りを最大限に楽しむコツだそうだ。