写真家・藤原新也さんが忘れられない「におい」 五感を使ってシャッターを押す理由
――世界中を旅してきました。一番覚えているにおいは何でしょう。
火葬の煙のにおいにはかなり感じるものがあった。人が焼けるにおいって、まず嗅(か)ぐことがないでしょう。20代後半でインドに行って、ガンジスの河畔で人が火葬されているところに通って写真を撮っていた。近くでじっと見ているとき、風がこっちに吹くと、ブワッとにおってくる。目で見る以上のすごみを感じて、初めて死体のことが分かったと思った。
1カ月近く通っていると、においが個体によって違うことに気づいた。いいにおいではない。煙っぽいな、ムッとするな、とか。じゃあこの違いは何なのか。おいしい魚は、内臓がきれいなんだね。おいしくない魚はそうじゃない。内臓に病気がある魚を焼くと、いいにおいがしない。だから人の肉体、内臓を含んだ肉体が病んでいる場合は、焼けたときのにおいに不快感があるんじゃないかと思った。
ただ、においには個体差がありながら、焼け落ちた灰の色は全部同じ、無色だった。あるとき、どういう味がするのかなと、ちょっとなめてみた。全く味もにおいもしなかったんだね。無色、無味、無臭。この世の中にそんな世界があることを初めて知った。人間は煩悩が百八つもあって、心持ちも全然違って、病んでいることもある。ものすごい差異がある世界に生きていて、燃えるとそれがにおいで伝わってくる。でも全てが灰になってしまったら、無色無味無臭に変わる。
これは僕の体験のなかで、とても大きな出来事で、一番大きな学びでありショックだった。死というものを素直に、普通に受け入れられる気持ちになった。
――ふとやってみようという気持ちでなめたのですか? 考えてのことですか、それとも性格のようなものですか。
普通の人はしないけど、僕はやってしまう。何でも参加したり、やってしまったり、時には一線を越えてしまう性格というか、行動パターンなんだ。道端にイヌやネコがいると必ず触る。インドでもヤギがいたり、ウシやゾウがいたりすると、必ず触った。
ただ、動物、例えばイヌの嗅覚は人間よりずっと優れていて、彼らは嗅覚で生きている。インドを旅している時も自分の状態がよくないと思ったら、動物を避けていた。体調が悪いとか、精神的にあまりよいと感じられない時は、人間が発するにおいも違うと思う。イヌなんか特にそれに敏感だし、ウシもそう。そういう時、彼らはパッと逃げるんだな。自分の生活状態がよくて、健康で気分もよいときは逃げない。向こうからの接触が全く違う。
インドにいたのは若い時だから、かなりハードなことをして、ひどい病気にかかったこともあった。それでも1週間くらい寝込むと、完全に熱も抜けて、ひょろーっとした感じになって。とてもすがすがしい。病気からの回復はある意味、デトックスだから、全て悪いものが出た状態になったんだね。服も着たくないから、ふんどし一丁、半分裸のような格好で街に出て、歩いた。すごく素晴らしい気持ちで。
そうすると、バラナシの雑踏の向こうに白い物がパッと見えた。雑踏の向こう、100メートルくらい離れていたところにウシがいた。向こうもこっちを見たような感じだった。ずっと見ていたら、そのウシがすーっと歩いてきて、僕の胸に鼻をくっつけて、じーっとしたんだ。ひんやりしてね。その感触はいまだに残っているけど、あれは不思議だった。そういう瞬間は人生でめったにないけど、崇高な気持ちになった。動物ってすごいな、と思ったね。
――海外から日本に帰られた時、どんなにおいを感じましたか。
インドなんかだと、生から死まで全てのにおいが満ち満ちているわけでしょう。さっき話した火葬なんて、ものすごく強烈なにおいだったからね。本来、日本にも同じようなにおいは当然あるはずだけど、帰ってくるとにおいがない。それは清潔感と言えるかもしれないけど、においが全くないこと、消されていることの怖さも感じた。
――においの取材で考えたのは、子どものことでした。食事の時に皿に鼻を近づけてにおいを嗅ぐのを見て、「行儀悪い」と思ったのですが、とても自然な行為なのだな、と。においを嗅ぐことに動物的イメージを持っていることに気づきました。
子どもはあらゆることに全てのセンサーを開いているからね。学校の帰りなんかでも、寄り道したり、それこそ花のにおいを嗅いだり。そうすると、学校まで500メートルの距離なのに、2キロにも3キロにも感じて、大人になってから「こんなに短かったのか」と驚くようなことが起きるでしょう。
大人は社会的動物になるために、見るという行為一つとっても、競走馬が遮眼帯をつけるように、狭い範囲でしか見なくなる。その角度でものを見ることで、円滑に生活できる面もある。でも、本当はその角度の外のものも見えているのに、見ていないだけ。
子どもはそういう「余計な物」をたくさん見て、世界を全身で感じている。食べ物のにおいを嗅ぐ子どもは、すごく正しい行いをしていると言うか、あるべき姿だろうと思う。
――被写体に向かうとき、においを意識することはありますか。
被写体という感覚は僕にはない。40代くらいまではあったけど、今はない。被写体というのは、もの、対象がそこにあって、自分がそこに向かう、つまり、見るという意識でしょう。僕は現場に入ると、「あ、写るな」という感覚はある。でもそれは、そこに何かがあるからではなくて、パッと分かる。
結果的にそれが被写体ということだけど、見るという意味で感じるのではなくて、総合的な感覚、五感を使う。現場には、においもそうだし、音もそうだし、五感を誘発する全てのあらゆる情報が満ちている。五感を開いていれば、全てそれが分かる。被写体という「何かのもの」があるわけではなくて、その場の空気から感じて、「写るな」と分かると、シャッターを押す。
そうやって撮るようになると、目で一生懸命何かを探す必要がなくなるから、写真を撮るのがすごく楽になった。だから今は、こんな楽な仕事はないなと感じている。そうやって撮った写真には、においも満ちていると思うんだけどね。
――シャッターは1回しか押さないと書かれていますね。
同じシーンが二つあるというのは、あり得ないわけでしょう。それはある意味とても怖いことだけど、そうなんだ。別の流れになった時にまた押すことはあるけど、同じシーンは絶対1回しか起こらない。見えない、見ない部分をどこかに作ることで、その写真なり絵なりがよくなっていくということはあるわけです。
もう一つ、「見る」という行為に関して言えば、「全部が見えている写真」というのは、画面になった時に、1回見たら終わりだと思う。何回でも見ることができる写真というのは、撮影する人がどこか「惚(ほう)けている」と言うか、見てないところがある。つまり、「見る仕事だけど、見ない」という意識を持つという、逆のことをしなければならない。そういうステージに入った時は、写真が豊かになって、何回でも見ることができる。逆に、隅々まで全てを計算して写したものは、完成度は高いかもしれないけど、1回見れば十分になってしまう。
――難しいですね。
さっき絵を見せたでしょう。全部自分の腕で描いている絵というのは駄目なんだ。描こうとした物以外にも、腕が勝手に動いているとか、そういうシーンがあるわけね。そこで働いているのは、自分の意識とは別の意識。それと同じようなことが写真にもあって、結局全部自分が見てしまうと、不思議と写真に「ふくよかさ」が感じられない。
「見る」というのは結局のところ自我。ただ人間というのはそれほど大層なものではないから、全てのものが自我で計算され、できているという表現はやっぱりつまらない。自我をどこかで消していくということが自然にできるようになれば、もっと豊かになるということなんだ。