――体から出るにおいは、同じ生き物ならいつも同じなのでしょうか。
においは多くの生物にとって、食べ物の場所を知ったり、仲間や敵を識別したり、異性を見つけたり、さまざまな場面でシグナルになっています。個体差だけでなく、体調や気持ちによっても発するにおいは変わります。
人間も同じ。飼い主の体調をイヌが見分けるといわれるのは、飼い主の体のにおいを嗅ぎ分けているからです。人間は雑食だから、ほかの生物にとってかなりくさいはずです。
体臭は食生活に大きく影響されますが、根本にある体臭を決めているのは遺伝子なので、一卵性の双子のにおいはイヌがうまく識別できないとも言われています。
――人間はイヌより濃度の変化には敏感だといわれる一方で、嗅覚にはそれほど頼っていません。人間の嗅覚は退化しているのでしょうか。
たしかに、イヌなどの四つ足の哺乳類と人間とでは、鼻の構造も嗅神経細胞の数も大きく違います。微量で検知する能力は人間以外の動物の方がある。おもにフェロモンを感知する器官である鋤鼻(じょび)器も人間でははたらきを失っています。
ただ、人間の鼻も、思っているほど悪くない。地面に目隠しをして鼻を近づければ、においの跡をたどることができるという実験もあります。訓練すれば感知能力はよくなります。意識するほど、においが鼻につくのと同じで、ある程度なら低い濃度でも嗅ぎ分けられるようになります。
――では、人間にとっての嗅覚って何なのでしょうか。
生きていくために必須の感覚ではなくなっていますが、人間はある意味、嗅覚を進化させつつある生物種でもあると思います。人間はほかの動物と違って、気道と食道が交差しており、食べ物をのみ込むと、鼻に通じる弁が閉まり、のみ込んだ後に弁が開きます。このときに、香りが鼻へ抜けるのです。この香りが料理の味わいを豊かにしてくれます。
香りを嗅いで季節感を感じたり、リラックスしたり、人間は鼻を生活を豊かにするための、ぜいたくな嗅覚の使い方をし始めています。マウスやイヌにはできないことです。五感をバランスよく使えるのは人間だけなのです。
――先生はフェロモンの研究もなさっていますね。
マウスのオスとメスは、互いに顔をくっつけあってコミュニケーションをとります。オスの涙に発情期のメスを交尾に誘うフェロモンを見つけました。しかも、野生マウスの涙のほうが代々実験室で飼育されたマウスの涙より作用が強いこともわかりました。最近、マウスの尿にも、メスを誘うにおい物質があることを見つけています。精子や卵子にある「におい」センサーや昆虫の嗅覚や味覚センサーの機能も調べています。
――においの研究から動物のしぐさも理解できるのですね。
マウスだけではありません。たとえばネコもにおいを出す分泌腺が顔にあります。よくネコが足元に顔をこすりつけているのを見て、「親愛の情を示している」と人間は感じますが、実は、「この人間は自分のものだ」と縄張りを示しているのです。においによるコミュニケーションの一つです。
――においの世界は奥深いですね。
私は大学時代、さまざまなにおいがあふれている有機化学の研究室にいました。嗅覚に取り組みはじめたのは、その8年後、米国留学から帰国した後です。以来、嗅覚や味覚を対象に生化学的な視点で研究をしてきました。これからも「もの(物質)」という視点を忘れずに生命現象を解き明かしていきたいと思っています。(聞き手・竹石涼子)