「じゃあ、目を閉じて」。日本女子大学学術研究員の小長井ちづるが、私の鼻の前に固定された試験管の栓を抜いた。自分の鼻息が試験管に反響して音を立てる。まもなく、強い香りが漂ってきた。すぐにわかる。ラベンダーだ。
2分間ほど嗅いで、3分間の休憩。そしてまた別の香り――といったぐあいに全部で5種類の香水や香料、精油の香りを嗅いだ。それと同時に、その時々の脳波の変化を調べてもらった。
■同じムスクの香りでもα波に違い
リラックスしたときに増える脳波「α波」を見ると、5種類のうち4種類の香りについて、私と友野の間で差はなかった。だが、ムスクの香料だけは違った。私は明らかにα波が増えていたが、友野のα波はむしろ減っていたのだ。
なぜだろう? 理由を考えていると、2週間前の場面が頭に浮かんだ。
別の研究室を2人で取材した際、ムスクを嗅がせてもらった。私は「ほんわかした優しい香り」と好感をもったのに対して、友野は「獣臭くて耐えられない」と話していた。ムスクの香りが好きか嫌いかという感情が、α波の出方にも表れていたのだろう。
実際、好きな香りを嗅ぐと気分がよくなることがわかっている。
古賀は以前、中年の男性たちに「蒸留水」「エタノール」「ウイスキー」のにおいを嗅いでもらい、脳波をはかる実験をしたことがある。ウイスキーが好きな人は、ウイスキーを飲まなくても、その香りを嗅いだだけで快感をつかさどる中枢が活性化していたという。
古賀は言う。「どの香りでリラックスできるかは個人の好みに左右される。自分が好きな香りをうまく利用すれば、ストレスを軽くすることができる」
■異なる嗅覚センサーの遺伝子タイプ
では、同じ香りなのに、人によって好き嫌いが分かれるのはなぜか?
米デューク大学准教授の松波宏明は、男性の汗に含まれる物質を嗅いでもらう実験をしたことがある。被験者たちの反応は「耐えられないほどくさい」「ほわんとしたいい香り」「まったく無臭」と大きく三つに分かれた。嗅覚のセンサーの遺伝子のタイプが違えば、同じ香りを嗅いでも印象が異なるらしい。「だれもがよく知るイチゴの香りでも、感じている香りは人によって違っているのかもしれない」。松波は、そう説明する。
香りの濃度も好き嫌いに影響する。
たとえばムスクは、適度な濃度だと甘い花のような香りがあるが、濃いと獣臭い印象が強くなる。印象が変わるのは、濃い香りを嗅ぐと、嗅覚のセンサーの反応が強くなりすぎたり、多くのセンサーがはたらいてしまったりするかららしい。
茨城県つくば市の花き研究所では、香りを抑えたユリを開発した。主任研究員の大久保直美は言う。「結婚式場やレストランなどでユリの香りが強すぎると、料理の香りを消してしまう。香りの弱いユリの要望が強かった」