大阪バイオサイエンス研究所の小早川令子は、夫の高(こう)とともに、動物が本能的に恐怖を覚える香りがないかを研究している。これまで、マウスの天敵のにおいから人工の香りまで多種多様な候補を調べてきた。「恐怖の香り」は複数あるとみられ、その効果も強いものから弱いものまでさまざまらしい。
こうした「恐怖の香り」の候補の一つである合成物質が、マウスを失神させた脱脂綿に染みこませてあったのだ。
過去に怖い思いをしたときに嗅いだ香りに再び出合い、恐怖がよみがえるのならわかる。だが、夫妻が調べている「恐怖の香り」の候補はどれも、研究室で生まれ育ったマウスは嗅いだことのないものばかりだ。過去の体験がないのに、マウスは背すじを凍らせて失神するほどの恐怖を覚えた。ということは――。
「生まれつき、脳の中には、安全なにおいと危険なにおいを見分ける地図があるのではないか」。小早川夫妻は、そう考えている。
■恐怖断ち切る実験で「ネコを怖がらないマウス」
「恐怖の香り」とは逆に、小早川夫妻は2007年、香りと恐怖との関係を断ち切る実験に成功して世界を驚かせた。遺伝子を操作して「ネコを怖がらないマウス」をつくったのだ。
マウスは目が悪いので、嗅覚(きゅうかく)を頼りに行動している。鼻の中にある嗅細胞の受容体(センサー)で空気中の「におい分子」をとらえ、それが何の香りなのかを脳で認識する。小早川夫妻がマウスのセンサーと脳をつなぐ神経回路を壊したところ、天敵であるネコやキツネのにおいを嗅いでも怖がらなくなったという。
実験では、ネコの脚の間にマウスが自ら入りこんでくつろぐ場面もあった。おっちょこちょいなネコと強気なネズミがドタバタを繰り広げる米国のアニメを引き合いに出し、「トムとジェリー」と紹介した海外のメディアもある。
小早川夫妻の研究は、鼻のセンサーと脳の絶妙な連係プレーによって嗅覚がなりたっていることを教えてくれる。
ただ、その連係プレーの詳細については、まだわかっていないことも多い。嗅覚の研究でノーベル賞を受けた米国のリンダ・バックを含め、世界中の研究者が解明に取り組んでいる。それによって、人間や動物が恐怖を感じる仕組みが詳しくわかってくれば、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法の研究や、作物を食い荒らす動物を畑に近づけない薬剤の開発などにつながる可能性がある。小早川令子は言う。「嗅覚を探るということは、脳を見つめることでもある」