1. HOME
  2. World Now
  3. ミャンマーのクーデターから2年 市民ら武装抵抗、少数民族が訓練…宇田有三氏の視点

ミャンマーのクーデターから2年 市民ら武装抵抗、少数民族が訓練…宇田有三氏の視点

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
カレン民族解放軍兵士らと宇田有三さん
カレン民族解放軍兵士らと宇田有三さん(後列左2人目)。カレン民族はミャンマーの少数民族の一つ=2003年撮影、宇田有三さん提供

――2年に及ぶ抵抗運動には、どのような特徴があるのでしょうか。

市民の武装抵抗勢力はミャンマー全土で、大小合わせて500から600ほどあると言われています。一つの勢力は10人程度から数十人程度まで、様々です。

それぞれの勢力は基本的に連携していません。横の連携が生まれれば抵抗力も増しますが、逆に芋づる式に摘発される危険が生まれます。軍をひっくり返すほどの力はないものの、根絶やしにはされないという状況が続いています。

――抵抗運動は、具体的にどのようなことをしているのですか。

SNSなどで連絡を取り合って、軍の施設などのピンポイント攻撃や待ち伏せの奇襲攻撃などを繰り返しています。ミャンマー軍による空爆の反撃を受けると、山中に身を隠します。

現在繰り広げられている抵抗運動は、市街地でのデモ活動を封じられた主に若者たちが武装抵抗しているのが特徴です。彼らや彼女たちは家族や職業を捨て、少数民族の軍事キャンプで訓練を受けています。

そこで自動小銃や携帯式のロケットランチャーなどを入手し、当初は主に軍の兵士をターゲットにしていましたが、時には地方や都市部に住む軍の協力者を殺害するようにもなってきました。

市街地で軍の拠点を襲うこともあるようです。タイ国境の東部はもちろん、北部の中国国境や西部のインド国境を含む全国で同じ現象が起きています。

1988年の大規模な民主化デモの後にも、過激化した一部の市民が手製の武器などで軍の協力者を殺害したことはありますが、これだけ全国的な武装闘争は初めてだと思います。

弾圧された市民が過去、少数民族の助けを借りたこともありましたが、これほど大規模な支援を受けることも初めてでしょう。

バングラデシュとミャンマーの国境線があるナフ河の中央付近
バングラデシュとミャンマーの国境線があるナフ河(写真)の中央付近。ナフ河畔沿いには2009年頃末から、少数派イスラム教徒ロヒンギャの出入りを厳しく取り締まるための柵が建設され始めた=2010年、宇田有三さんがバングラデシュ側から撮影

――日本ではあまり、少数民族の役割について語られていないようです。

ミャンマーでは70年以上、政府軍と少数民族の争いが続いてきました。世界でも最も古い歴史を持つ内戦の一つだと思います。

でも、軍政下の長い間の教育効果から、ミャンマーの市民は少数民族を「政府に反対している武装勢力」とみてきました。一緒に戦う抵抗勢力だという認識がありません。

また、日本人がアイヌ民族や琉球民族の法的な位置づけに詳しくないのと同じで、ミャンマーの一般市民も、カチンやシャン、カレンなど少数民族について、それほど詳しい知識を持っているわけではありません。

ミャンマーの人々には長い間、「統一国家」としての意識も希薄でした。実際、タイやインドとの国境を実効支配しているのは少数民族勢力です。

その一方で、少数民族たちが「自分はミャンマー人」という国民意識を持ち始めたのは、テインセイン政権が国際社会に開放的な政策を取り、国際交流が増えてからで、まだ20年くらいのことではないでしょうか。

タイとミャンマーの国境線でもあるモエイ河
タイ(手前)とミャンマー(奥)の国境線でもあるモエイ河で、国境画定の護岸工事をする人たち。奥の河岸にはミャンマーのミャワディという町があるが、それより北はカレン民族軍から分派した少数民族武装組織が支配する地域になっている=1997年、宇田有三さん撮影

――市民の武装勢力と少数民族は連携して抵抗していないのですか。

一般市民の少数民族への理解が低いことに加え、少数民族も武装勢力だけで20くらいあります。各組織ごとに闘争する路線が違ううえ、ミャンマー軍が、個別に停戦交渉を持ちかけるなどして、それぞれの勢力が団結することを妨害しています。

各少数民族の内部でも、武装組織と文民組織に分かれているところもあります。少数民族の利害が一致しないため、市民の武装勢力との間で、団結や相互理解、十分な信頼関係が醸成されているとは言えません。

――国家顧問兼外相のアウンサンスーチー氏は昨年12月、禁錮7年の有罪判決を言い渡されました。

スーチーさんと市民による武装勢力とは完全に分離されています。スーチーさんが彼らや彼女たちを指導している状況にはありません。

市民の武装勢力はもちろん、軍に反対する一般市民はスーチーさんたちの解放を求めていますが、あくまで「市民の権利と義務」を意識して行動しています。スーチーさんは民主化のシンボルでしたが、すでに前世代の人だという認識があるようにも感じます。

ただ、スーチーさんは必ずしも、純粋な非暴力主義者ではなく、現実主義の政治家としての一面もあります。過去のインタビュー集を読むと、スーチーさんは、インドのガンジーの言葉を引用して「臆病と暴力という選択しかない場合、私は暴力を選ぶ」と断言しています。

1990年代、ミャンマーの学生が少数民族に逃げ込んで武装闘争したときも、学生たちを非難しませんでした。スーチーさんは現在の武装闘争を非難しないと思います。

――ミャンマーはこれからどうなっていくでしょうか。

情報も限られているため、今後を見通すことは極めて難しいです。ただ、市民の武装勢力と少数民族の交流が想像以上に増えたのは事実です。

お互いの利害があるため、簡単に協力はできませんが、少しずつ、ゆっくりと変化していくのではないでしょうか。それが、人口の約7割を占める多数派ビルマ民族(ミャンマー民族)と少数民族たちの新しい国づくりに向かえばよいと思います。

ミャンマーの独立は1948年ですが、隣国との国境の画定や全ての人々を含んだ国民としての意識の統一は、当時は世界的にもよく見られた、強固な同化主義政策をとる軍部の強権政治によって成立ませんでした。

ミャンマーとインド国境、かつての「レド公路」
ミャンマーとインド国境、かつての「レド公路」。レド公路は第2次世界大戦中、欧米連合国が中華民国(当時)を支援するために作った「援蒋ルート」の一つだった。1970年代前半に国境が画定したこの地点には、両国ともに国境を警備する兵士の姿はなかった=2018年、(ミャンマー側から宇田有三さんが撮影

ミャンマーなど東南アジア諸国は過去、欧米諸国と肩を並べるような国としての意識が十分ではありませんでした。つまり、日韓で起きているような、植民地支配を振り返る「過去に対する謝罪」などの要求もほとんどありませんでした。

ところが、1年ほど前、1940年代に起きたインドネシア独立戦争の際、植民地の宗主国だったオランダの軍が過度な暴力を振るったとして、オランダの首相がインドネシアに謝罪したというニュースを見ました。東南アジア諸国で、植民地の宗主国から謝罪を受けたのは初めてのことかもしれません。

ミャンマーの情勢も、「2歩進んで1歩さがる」というような厳しい状況ですが、新しい国づくりに向かう同国を粘り強く注目していきたいと思います。

「レド公路」上からインド側を見下ろす宇田有三さん
「レド公路」上からインド側を見下ろす宇田有三さん=2018年