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「日本人はスーチーさんを誤解」 ミャンマー取材27年の記者が読むクーデター

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
ミャンマーに暮らしていても、自動小銃の引き金に指をかけた国軍の兵士たちの姿を見ることは極めて限られている。軍の活動が続く前線に向かう国軍兵士たち=ミャンマー南東部、カヤー州で2015年、宇田有三さん撮影

宇田さんがこの20数年間、欠かさずにやってきた日課がある。

ミャンマー情報省のサイトから英語とミャンマー語の国営紙をダウンロードして読み込む作業だ。「国際社会では反体制派の人々の動向に関心を払う人が多い。自分は、ミャンマー政府が何を考えているかを追いかけようと思った」

ミャンマー人の知人らから「クーデターが起きたかも知れない」という連絡が入った2月1日、宇田さんはいつもの作業を終えたところだった。「クーデターなら、放送局などを占拠するはずだ。本当なのか」といぶかしい気持ちでいると、情報省のサイトに接続できなくなった。

宇田さんは「驚きと安心と反省が入り交じった気分になった」と語る。「流血はなかった。ミャンマーの人の血が流れなかったと思い、ほっとした。直前までクーデターを予測できなくて、驚くばかりだった」。では、なぜ「反省」したのか。

ミャンマーは2011年に長く続いた軍政から民政へ移り、軍出身のテインセインが大統領に就任した。当時、ほとんどのメディアや専門家は「背後に軍政のトップで独裁者だったタンシュエ上級大将がいて、テインセインを操っている」と分析したが、予想外のスピードで民主化が進み、2016年に初の文民大統領が誕生したからだ。「今回も、事前にクーデターの動きを感じ取れなかった」という反省の気持ちがこみ上げたという。

公式発表では停戦したとされるが、実際は今も戦闘が続く現実がある。武装抵抗を続けるカレン民族解放軍(KNLA)が抵抗70周年の式典を催した=カレン州で2019年、宇田有三さん撮影

「軍政下に生きる人々」は、宇田さんがずっと追い続けてきた取材テーマだ。「民族や宗教紛争は、当事者それぞれに正義がある。でも、軍政下の暮らし、暴力による支配に納得する人はいない」と思ったからだ。

最初は中米のエルサルバドルやグアテマラで取材を始めた。中米での取材が落ち着き、次は東南アジアでの取材を考えた。「インドネシアは大きすぎて手に余る。ミャンマーなら、納得がいく取材ができるのではないか」と考えた。1993年5月、初めてミャンマーの土を踏んだ。最初は、タイ国境に近い東部カレン州で、軍政に抵抗するカレン族ゲリラを中心に取材していたが、やがて壁に当たった。

「なぜ、彼らは命をかけてここまで必死に軍政に抵抗するのか」。国軍が襲った村を取材した。被害者のカレン族の人に「何を盗まれたのか」と聞いてみると、それは粗末なコップや皿などだった。「大金を盗まれたわけでもない。彼らの抵抗する力の源泉は何なのだろうか」と考え込むようになった。

理解を深めようと、2002年に取材拠点を当時の首都ヤンゴン(2006年にネピドーに遷都)に移した。その後、シャン州、ラカイン州、カチン州などミャンマー各地に足を運んだ。少数民族の問題や軍政の実態、ムスリムへの差別問題などを目の当たりにすることになった。

宇田さんはミャンマーを理解するため、現地を歩いた。過去には2度、それぞれ1年間にわたって現地で暮らした。最北部にあたるカチン州を4週間かけて歩き、2018年には中部にあるミャンマー第2の都市マンダレーからインドとの国境までをバイクで走破した。地をはうような取材で見えてきたのは、大きく変わっていくミャンマーの姿だった。

まず、軍政下で国の英語の呼称がビルマからミャンマーに変わり、人々が「国」を意識するようになった。宇田さんは現地取材の際、行く先々で必ず「あなたは何人」と聞くことにしている。最初は「カレン人だ」「カチン人だ」という答えが多かったが、徐々に「私はミャンマー人」と答える人が増えていった。「軍政が、それまで、日本で言えば江戸時代の藩のような意識しかなかった人々に、国民意識を植え付けた結果だった」という。

バイクにまたがりビルマ(ミャンマー)を走り続ける宇田有三さん

宇田さんは2011年に民主化された後のミャンマーの姿を「日本で言えば、明治維新と第2次大戦の終戦とIT革命が一緒にやってきたような時代」と表現する。

「軍政時代、人々は24時間、365日、常に緊張を強いられた。いつ、軍に連れ去れるかわからないという恐怖のなかでの生活だった」。宇田さんは、政治囚として15年間、獄中にいた人物と会ったことがある。彼は長期間の獄中生活による後遺症で普通に会話ができない状態になっていた。

宇田さんも2002年から1年間、安いゲストハウスを拠点に取材を続けた。このときも「いつ、ドアがノックされるのか」「いつ、取材メモが押収されるのか」という緊張の日々だった。

しかし、2011年以降、明るい希望を胸にした人々は前向きになった。「コメの値段が上がっても、それが民主化のために必要なら我慢しようという人々も出てきた」という。生活はすぐに良くはならないが、「明日はもう少し良くなる」という希望が人々の間に広がり始めた。

ところが、正反対の気持ちを持ち始めた人々もいた。軍だ。「軍は民主化当初、実は最も得をした。中国以外にも、欧米諸国からの投資がどっと増え、軍の得る利権の規模が広がったからだ」。軍が民主化を支持した背景には、こうした現実的な計算があったという。

宇田さんは、軍の満足した気持ちが、民主化の進展とともに徐々に揺らぎ始めたのではないかとみる。「最近2年くらいの間、ほぼ毎日、政府系紙に麻薬取り締まりの記事が出るようになった。与党のNLD(国民民主連盟)は民主主義や人権を重視しており、実際に取り締まりを始めるという警告だったと思う」

宇田さんによれば、タイ、ミャンマー、ラオスの国境地帯に広がる「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」では最近、合成麻薬の生産が盛んになっている。ミャンマー軍部の腐敗した一部の幹部は、年間で数千億円規模の利権を手にしていると推測する。「3兆円規模のミャンマーの国家予算に比べても莫大な数字。この利権に手を突っ込まれると、こうした幹部らが考えたのではないか」

また、アウンサンスーチー氏は国営企業の民営化も進めていた。「2月1日に議会が始まり、様々な法律が通れば、さらに軍の利権は小さくなるという危機感があったのかもしれない」

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一方、欧米や日本からは、ミャンマーがクーデターによって再び、中国に接近するのではないかという警戒の声が上がっている。

「ミャンマーの人々は心情的には中国を嫌っているのは間違いないと思う。植民地時代から独立後にかけ、中国系やインド系の人々がミャンマー経済を牛耳ってきたからだ。中国を頼っていたのは、欧米諸国による経済制裁で、助けてくれる国が他になかったからだ」。宇田さんによれば、中国はインド洋に出るためのルートとして、ミャンマーにガスパイプライン、鉄道、高速道路の建設を提案した。これに対し、軍は鉄道と道路の敷設には難色を示した。しかし、NLD政府の許可によって、鉄道の建設も決まったという経緯があったという。ガスパイプラインはすでに稼働済みだ。

「ミャンマー国民の間で、スーチーさんへの信頼は絶大だ。だが、それは国を現実的に切り盛りする政治家として頼りにしているのであり、人権や民主主義の象徴だけという欧米からみた視点での支持ではない」

スーチー氏は「軍は国防のために必要だが、軍が政治に関与するのは認めない」と言っているに過ぎない。宇田さんは「日本人はスーチーさんを誤解している部分がある。ミャンマーの人々はスーチーさんをアメ・スー(スーお母さん)と呼ぶ。それは大きな国難に遭ったときは母の慈愛を頼りたいというミャンマー社会に根ざした価値観から来ているのだ」と語る。

2010年、15年に及ぶ自宅軟禁を解除されたアウンサンスーチー氏が歓喜する市民に出迎えられた=ヤンゴン、宇田有三さん撮影

ミャンマーは近年、ロヒンギャ難民問題で国際社会の批判を浴びてきた。スーチー氏はコフィ・アナン元国連事務総長を委員長とする第三者の調査委員会を設置し、問題の解決を探ってきた。宇田さんは「結局はスーチーさんのやり方しかない。委員会の提言をきちんと遂行しているのか、という検証は必要だが、方向性は間違っていない」と語る。

「ロヒンギャは国籍の問題であり、民族問題ではない。日本人もそうだが、ロヒンギャ難民問題とロヒンギャの問題、これらを生み出したミャンマーの問題を十分理解していないから混乱が起きる」と語る。

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日本政府は従来、民主化や人権問題で欧米ほどの強い姿勢を取らず、「ミャンマーと欧米との橋渡し役」を自認してきた。2011年の民政移管では、「日本の試みが成功した」(外務省幹部)と胸を張り、各国に先駆けてミャンマーへの投資を展開した。

だが、日本からの投資は思うような成果が上がっていないという評価があるなかで、再び、ミャンマーは軍政への道をたどり始めたようにも見える。

宇田さんは「経済ミッションも政治家も、ミャンマーに来る日本人は全く世代交代していない。ミャンマー側に立って考えていない。アジア・太平洋戦争中の悲劇とされるインパール作戦を語るときも、犠牲になった日本軍兵士の話ばかりで被害に遭った現地の人々の話をする人は極めて限られている」と語る。

宇田さんの目には、日本が本当にミャンマーの人たちの人権を考えているようには見えない。今回のクーデターを巡り、日本の一部で出ている「あまり軍部を批判すると、ミャンマーを中国に追いやるから止めておこう」という意見がその一例だ。「日本人は北朝鮮なら金正恩、イラクならフセインという名前は知っている。でも、ミャンマーの前の独裁者、タンシュエは知らないでしょう」

当然、ミャンマーの人たちの日本を見る視線もそれなりになる。「ミャンマーの人々はもちろん、日本に感謝している。欧米のように頭ごなしに批判しないし、経済支援もしてくれる。でも、スーチーさんにとっての日本は財布でしかない。人権や民主化で期待しているわけではない」

1988年にラングーン(現ヤンゴン)で大規模な民主化デモが起きたとき、人々が目指したのは米国大使館であって日本大使館ではなかった。

宇田さんはこうも語る。「もちろん、自分が見聞きし経験したことがより正しいと強調したいとは思いません。時間をかけたからといって、必ずしも現地を深く理解し、正確に現地の実態を日本に伝えているとも限りません。もし明日、初めてミャンマーに入る人がいたなら、その人はその人なりに新鮮な視点でミャンマーの姿を見ることができるでしょう。だからこそ、若い世代の人々ができるだけ多く、今のミャンマーを訪れて、直接現地の人に触れて欲しい。そこから始まると思います」