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スピルバーグに選ばれた森崎ウィンが語る、母国ミャンマーへの熱い思い

Breakthrough 突破する力
愛車のミニ・クーパーを運転して撮影場所に現れた。「たいていの現場は自分で運転して行っちゃいます」=東京都港区、鬼室黎撮影

この笑顔を目にする機会が増えた。人気小説が原作の映画「蜜蜂と遠雷」では、日系人の天才ピアニストを熱演。カンヌ国際映画祭に出品された「本気のしるし」など、昨年は5作品で主演を務めた。

「ウィンくんは本当にミャンマー人なんですか」。最近、日本で暮らす同胞に聞かれた。ウィンは本名、森崎は「仕事が入りやすい」と事務所がつけた芸名だ。東南アジアの国ミャンマーで生まれた。今も国籍はミャンマーだ。

2000年、10歳のときにやってきた日本は冬だった。「さむっ。夜でもこんなに明るいんだ」。父は各国を巡る船の整備士、母はウィンを生んですぐ日本に渡り、東京で事務の仕事をしていた。ミャンマーで祖母と暮らしてきたウィンは、弟の誕生を機に日本に移住。突然、東京の公立小学校の4年生になった。

「ウィンです、よろしくおねがいします」。初めての登校日、教室の前であいさつした。日本語はほかに「ありがとう」しか知らなかった。言葉がわからず、意地悪な上級生に仲間はずれにされ、蹴られて学校の屋上で泣いた。それでも、1年で日本語をマスターし、サッカーに夢中になり、親友もできた。ウィンの日本での歩みはこんなふうに始まった。

大好きなおばあちゃんと過ごしたミャンマーでの子ども時代=所属事務所提供

育ったのは東京・渋谷区。「ミャンマーから出てきたなら、日本のどまんなかを見よという、おじいちゃんの主義だったみたいです」。母方の祖父は奨学生として、日本に暮らしたことがあった。

ウィンが生まれる2年前、ミャンマーでは民主化を求める大規模なデモがあり、混乱期が続いた。母はウィンを生むとすぐ、祖父と暮らした東京に向かった。多言語をあやつる大切さが身にしみていたのだろう。ウィンに「英語を身につけなさい」と、手製のテキストで活用形をみっちり覚えさせた。

■日記に「絶対アカデミーとる」

芸能界との出合いは突然訪れた。中学2年の夏休み、久しぶりにミャンマーに帰国し、仏教徒の男児が修行をする習わしに参加した。丸刈り頭で日本に戻ると、女の子と待ち合わせていた恵比寿のスーパー前でスカウトされたのだ。「詐欺かも」と母と話したほど、歌手も俳優という職業も頭になかった。

滑り出しは悪くなかった。18歳で深田恭子主演の学園ドラマ「学校じゃ教えられない!」で名前つきの役柄をゲット。外を歩くと役名の「叶夢さーん」と声をかけられた。「俺は売れるぜ、芸能人だぜ! ってひどかったですね、テングでした」

だが目立つ役柄は続かなかった。一つ仕事が終わるとまたオーディションを受ける。11年の映画「天国からのエール」の撮影では、主演の阿部寛に「そのセリフ、ぐっとこない」とだめ出しされた。「ごくせん」「闇金ウシジマくん」など人気作にも端役で出たが、先の見えない日々が続いた。

居場所になったのは、08年からメインボーカルを務めたアイドルグループPrizmaX(後のPRIZMAX)だ。後輩に人気で追い越され、10人以上いたメンバーは次々に抜けて、12年には3人に。ファンが7人しか来ないステージもあった。でも、追い込まれてウィンの負けず嫌いに火がついた。「絶対に見返してやる」。グループの売りだった英語詞の曲をメンバーと競って作り、歌やダンスの練習を重ねた。当時のメンバーで親友の清水大樹(29)は、「明るくて情熱的なウィンが前のめりになって引っ張ってくれた」。この世界で生きていく。気持ちが固まった。

「部活みたいに楽しかった」というPRIZMAX時代のウィン。名曲もたくさん残した=所属事務所提供

15年から担当マネジャーの澤井拓馬は、「ガーンと地に落ちたことが、経験を積み、ポテンシャルを高めるチャンスになった」と話す。歌に演技に、目の前の仕事を一つ一つ続ける中、ハリウッドで「日英バイリンガル」の役者を探していると聞き、飛びついた。ビデオオーディションを見事通過。数カ月後、舞台とライブの仕事を終えて、2次オーディションのため米ロサンゼルスへ飛んだ。

「ウィン来てくれてありがとう」。待っていたのは、あの映画監督のスティーブン・スピルバーグだ。どきどきしながら英語で自己紹介した。カメラの前で渡されたのは「first to the egg」と書かれた紙。求められた通りに何度も読めという。「次は怒って」「悲しげに」「じゃあ日本語で言ってみて」。無我夢中で演じた。

アジア系米国人や著名な俳優もオーディションに参加したと聞いた。返事がなく、「だめだったか」。でも黙々と殺陣や英会話を練習した。映画「レディ・プレイヤー1」への出演決定の知らせが届いたのは、8カ月後のことだった。

4カ月にわたる撮影は刺激的だった。主演俳優のタイ・シェリダンは6歳年下だが、「出演者のリーダーとして分け隔てなく人と接する。自然体で、人間味にあふれていた」。18年の公開時は、会見でもネイティブの中で得意な英語がなかなか話せず、てこずった。興奮の中で日記に書いた。「オレは絶対アカデミーとる!」

スピルバーグ監督(中央)らと、米ロサンゼルスであった映画「レディ・プレイヤー1」のイベントで=所属事務所提供

■そうか俺はミャンマー人だ

昨秋NHKで放送されたドラマ「彼女が成仏できない理由」で、ウィンは日本にやって来たミャンマー人の役をした。

「ミャンマーってどこ?」と同級生に無神経に聞かれたことはある。深く傷つけられた記憶はないが、「外国人だから一歩遅れているように思ったこともあった」。外国籍の人も多い芸能界でも難しさは感じた。日本人ならノービザで行ける国にも簡単に行けない。日本国籍があれば、と考えたこともある。でも、母に言われた。「国籍はとれるよ、紙で申請するだけだから。でも名前が変わり国籍が変わったところで、あなたの血は変わらない」

そうか、俺はミャンマー人だ。自分のアイデンティティーを恥ずかしがってどうする。「これは俺の武器。俺にしかできない路線っていうのがきっとあるはずだって気づいたんです」

その思いが結実したのがこのドラマだ。愛知県は在留外国人数が東京に次いで多い。外国籍の人があちこちに暮らすさまを描こうと、名古屋放送局チーフプロデューサーの三鬼一希(51)が想定した主人公はベトナム人だった。三鬼と会ったウィンは、「ベトナム人の役もできます。でも……」。これまでの自分の歩み、日本や故郷のミャンマー人への思いを話した。三鬼は設定をミャンマーに変え、演出の堀内裕介(36)と文化や習慣を徹底的にリサーチした。「彼の情熱に応えたいと思った」

後日、ドラマ制作に協力したミャンマーコミュニティーの人たちと面会したウィンは、子どもたちに語りかけた。「学校で嫌な思いをすることもあるかもしれない。でも頑張れば道はひらけるよ」

一人の女性が言った。「ミャンマーって何が有名なのと職場で聞かれて、森崎ウィンって答えたの」。でも、相手はウィンを知らなかった。「なんかもう、うれしくて、悔しくて。ああ、俺もっと頑張らなくちゃ! って思うんですよ」(文中敬称略)

Profile

  • 1990 ミャンマー・ヤンゴンで生まれる
  • 2000 日本で働く両親のもとへ渡り、東京の公立小学校4年生に。日本語はほとんど話せなかった
  • 2004 ミャンマーへ一時帰国し、仏教の修行に参加。恵比寿でスカウトされる
  • 2008 アイドルグループPrizmaXにメインボーカルとして加入(20年解散)。ドラマ「学校じゃ教えられない!」に出演し注目される
  • 2014 初の主演映画「シェリー」公開
  • 2016 スピルバーグ監督のハリウッド映画「レディ・プレイヤー1」のダイトウ/トシロウ役に決定、18年公開
  • 2018 ミャンマー観光大使に任命
  • 2020 映画「蜜蜂と遠雷」の演技で日本アカデミー賞新人俳優賞受賞。主演映画「本気のしるし 劇場版」がカンヌ国際映画祭に。歌手としてMORISAKI WIN名義のデビュー曲がCMに起用される

Memo
まじめすぎ?…「寿命が尽きるまで悩んでます彼は」と言うのはマネジャーの澤井だ。「好青年すぎて逆に心配」(映画監督の藤元明緒)の声も。本人は「満足いかないんですよね。もうちょっとできたなとか、依頼をいただけたことに応えられるかなと思い始めると」と悩む。

愛称はア・ウィン…ミャンマーでは国民的人気。きっかけは、子どもが話すようなつたないミャンマー語でインタビューに答えた動画。フェイスブックでバズった。都内のミャンマー人留学生サイン・ラ・ハン(21)は、「何この人と思った。イケメンだし、ミャンマーが好きという話をいっぱいしてた。10歳で日本に来て、僕だったらミャンマーのことを忘れちゃうと思うけど、忘れていない。いいなと思った」。愛称は、かわいいウィンを意味する「ア・ウィン」。2019年の3分の1近くは現地で仕事だった。